中国共産党が第 1回党大会を開催し、結党を公式に宣言した1921年 7月当時、党員数は60人に満たなかったとされる。それが、49年の建国時には約448万人に増えていた。
中国共産党の草創期の史料をひもとくと、「中華民族」に言及するくだりはほとんどない。各国の労働者階級を結束させ、共通の敵である資本主義と戦おうという国際主義的理念ばかりが強調されていた。
当時の共産党軍は「労働者と小作農の代表」と自称し、国民党が主導する中華民国政府を「資本家と地主の代理人」と批判していた。
49年に成立した中華人民共和国が目指したのも、「搾取のない社会の実現」だった。
毛沢東は建国当初、農村部を中心に、労働に応じた分配原則を中心とする集団経済のモデル「人民公社」を導入するなど、共産主義的政策を試みた。だが、農民の労働意欲の低下などを招き失敗に終わり、毛の権威は大きく傷つく。
窮地の毛沢東が党内で失った権力を奪取すべく発動したのが、文化大革命だった。
青少年を扇動して紅衛兵を組織。「毛主席語録」の〝金科玉条〟化を進め、自らの絶対的権威を再び確立していく。その過程で共産主義を打ち立てるという理想は雲散し、個人崇拝が横行した。
第 1回党大会が開かれてから101年となる来年、第20回党大会が行われ、習は総書記として異例の 3期目入りを狙っている。
習思想とは、「中華民族の偉大なる復興」の実現に向けて打ち出された強国路線に他ならない。21世紀半ばまでに、中国人民解放軍を世界最強の米軍のレベルまで引き上げることなどを目標に掲げている。
産経新聞が、「強権解剖 中国共産党100年」という連載を始めています。
その「第1部 源流③」では、党の創建に日本との関わりがあったことが記されています。
中国共産党の創建に日本が関係あったとは、初めて知りました。
【強権解剖 中国共産党100年】第1部 源流① 中国 革命理念捨て個人崇拝 - 産経ニュース
【強権解剖】第1部 源流② 改竄で始まった党の歴史 - 産経ニュース
中国共産党の第 1回党大会は、1921年 7月23日に上海のフランス租界で開幕したのだが、租界の警察の手が伸びたため嘉興にある南湖の屋形船へ会場を移し、そこで党の綱領などを採択したのだそうです。
そして、その第 1回党大会に参加した13人の中国人の党員には、日本留学組が 4人いたと。
封建社会が長く続いた中国大陸にあって、共産主義の思想や概念が内側から生まれてくることはなかったはずだ。そんな中国になぜ共産党が誕生したのか。
中国共産党に詳しい京都大人文科学研究所石川教授は「日本語の文献抜きには語れない」と。
共産主義の目的をマルクスとエンゲルスが明らかにした1848年の「共産党宣言」が、堺利彦らによって全訳されたのは1906(明治39)年のこと。この時代、当時の清国から日本に留学したり滞在したりした中国人は日本語の文献や教育を通じ、西洋の政治思想に触れることができた。
「20世紀初頭の日本には西洋の政治や経済、社会や思想などを学ぶ書籍が(日本語に翻訳されて)そろっていた。中国人にとっては(ドイツ語や英語の)原書よりも漢字交じりの日本語の文献の方が理解が早かった」と石川教授。
「Revolution」の日本語訳が「革命」であることを知った孫文は、清朝打倒の運動で使っていた「造反」から「革命」に切り替えたとの逸話があるのだそうです。
現中国の国号「中華人民共和国」のうち、「共和国」が和製漢語。「人民」もそうだとする説もある。「中国共産党」にしても、「共産党」そのものが和製漢語なのだと産経。
第 1回党大会から28年がたった49年10月 1日、党創建メンバーの一人、毛沢東が北京の天安門楼上で共産中国の建国を宣言。
このとき、第 1回党大会に参加した13人のうち、毛沢東以外でまだ党員だったのは、後に国家副主席になる董必武(とう・ひつぶ) 1人だけだったのだそうです。
日本の私大で法律を学んだ董必武は日本留学組 4人の一人だったが、他の 3人はどうなったのか。
第 1回党大会が上海で開催されたとき、留学先の鹿児島から駆け付けたのが当時24歳の周仏海である。肩書は中国共産党の「日本代表」。
24年の国共合作後、共産党を離党し中国国民党に入党。汪兆銘政権で要職を務めたが、戦後、蔣介石政権に逮捕され、48年に50歳で獄死。
東京の旧制一高に留学した李達は毛沢東の親友だった。党大会後の23年、「理念が合わない」として離党。
文化大革命中の66年 7月、紅衛兵によって拘束。毛に「命を助けてください」との助命嘆願の手紙を送ったが、無視されて翌月死亡。
日本語が流暢で、党大会前に小説家の芥川龍之介のインタビューを受けた李漢俊は、国民党との協力を主張したが、共産党内で反対されるなどして23年に離党。27年に軍閥の手で処刑されたのだそうです。
党の創建に理論や思想で大きく寄与した知識人たちは、実務面で毛沢東ら活動家に歯が立たなかった。
どう運動すべきか、権力闘争を勝ち抜くにはどうしたらいいのか、といった知識は日本語の文献からは得られなかった。
かくして、日本製の赤い遺伝子は消されていったのだそうです。
連載記事には、こうした知らなかった事実が数多く出てきます。今後も楽しみです。
# 冒頭の画像は、第1回党大会が開かれた浙江省嘉興の南湖で会場となった遊覧船を再現した「紅船」の前で記念写真を撮っている人々
この花の名前は、ギボウシ・ウィールウインド
↓よろしかったら、お願いします。
中国共産党の草創期の史料をひもとくと、「中華民族」に言及するくだりはほとんどない。各国の労働者階級を結束させ、共通の敵である資本主義と戦おうという国際主義的理念ばかりが強調されていた。
当時の共産党軍は「労働者と小作農の代表」と自称し、国民党が主導する中華民国政府を「資本家と地主の代理人」と批判していた。
49年に成立した中華人民共和国が目指したのも、「搾取のない社会の実現」だった。
毛沢東は建国当初、農村部を中心に、労働に応じた分配原則を中心とする集団経済のモデル「人民公社」を導入するなど、共産主義的政策を試みた。だが、農民の労働意欲の低下などを招き失敗に終わり、毛の権威は大きく傷つく。
窮地の毛沢東が党内で失った権力を奪取すべく発動したのが、文化大革命だった。
青少年を扇動して紅衛兵を組織。「毛主席語録」の〝金科玉条〟化を進め、自らの絶対的権威を再び確立していく。その過程で共産主義を打ち立てるという理想は雲散し、個人崇拝が横行した。
第 1回党大会が開かれてから101年となる来年、第20回党大会が行われ、習は総書記として異例の 3期目入りを狙っている。
習思想とは、「中華民族の偉大なる復興」の実現に向けて打ち出された強国路線に他ならない。21世紀半ばまでに、中国人民解放軍を世界最強の米軍のレベルまで引き上げることなどを目標に掲げている。
産経新聞が、「強権解剖 中国共産党100年」という連載を始めています。
その「第1部 源流③」では、党の創建に日本との関わりがあったことが記されています。
中国共産党の創建に日本が関係あったとは、初めて知りました。
【強権解剖 中国共産党100年】第1部 源流① 中国 革命理念捨て個人崇拝 - 産経ニュース
【強権解剖】第1部 源流② 改竄で始まった党の歴史 - 産経ニュース
【強権解剖】第1部 源流③ 消された〝和製〟赤い遺伝子 - 産経ニュース 2021/7/3 中国共産党100年
中国・上海から30分ほど高速鉄道に乗ると、浙江省嘉興(かこう)に着く。今から100年前、中国共産党の第1回党大会に参加した党員たちは、上海から鉄道で3時間かけて嘉興に向かった。
党大会は1921年7月23日に上海のフランス租界で開幕したのだが、租界の警察の手が伸びたため嘉興にある南湖の屋形船へ会場を移し、そこで党の綱領などを採択したのだった。
今日、南湖には、屋形船を再現した「紅船」が浮かんでいる。6月のある日、10人余りのグループを率いる男性が額に汗を浮かべて声を張り上げていた。
「日々の仕事でも〝赤い遺伝子〟を発揮して責任をもってやり遂げなければならない!」
毎日のように訪れる党員や観光客にとって最も重要なのは、第1回党大会に毛沢東が参加していたことだ。それ以外は学習する必要はない。党の創建に日本との関わりがあったことなど知る由もないだろう。
■日本留学組4人
第1回党大会に参加した13人の中国人の党員には、日本留学組が4人いた。
封建社会が長く続いた中国大陸にあって、共産主義の思想や概念が内側から生まれてくることはなかったはずだ。そんな中国になぜ共産党が誕生したのか。
中国共産党に詳しい京都大人文科学研究所教授の石川禎浩(よしひろ)は「日本語の文献抜きには語れない」と話す。
共産主義の目的をマルクスとエンゲルスが明らかにした1848年の「共産党宣言」が、堺利彦らによって全訳されたのは1906(明治39)年のこと。この時代、当時の清国から日本に留学したり滞在したりした中国人は日本語の文献や教育を通じ、西洋の政治思想に触れることができた。
そのころ、日本に留学した中国人は8千人前後とされている。
石川は、「20世紀初頭の日本には西洋の政治や経済、社会や思想などを学ぶ書籍が(日本語に翻訳されて)そろっていた。中国人にとっては(ドイツ語や英語の)原書よりも漢字交じりの日本語の文献の方が理解が早かった」と話す。
日本に亡命中だった孫文が「Revolution」の日本語訳が「革命」であることを知り、それまで清朝打倒の運動で使っていた「造反」から切り替えた、との逸話も残る。
現中国の国号「中華人民共和国」のうち、「共和国」が和製漢語。「人民」もそうだとする説もある。「中国共産党」にしても、「共産党」そのものが和製漢語なのだ。
日本の影響がなければ、少なくとも100年前に中国共産党が誕生することはなかったと言っていい。
■助命嘆願を無視
第1回党大会から28年がたった49年10月1日、党創建メンバーの一人、毛沢東が北京の天安門楼上で共産中国の建国を宣言した。
このとき、第1回党大会に参加した13人のうち、毛沢東以外でまだ党員だったのは、後に国家副主席になる董必武(とう・ひつぶ)1人だけである。
党の創建に理論や思想で大きく寄与した知識人たちは、実務面で毛沢東ら活動家に歯が立たなかった。
どう運動すべきか、権力闘争を勝ち抜くにはどうしたらいいのか、といった知識は日本語の文献からは得られなかったのだ。
日本の私大で法律を学んだ董必武は日本留学組4人の一人だったが、果たして他の3人はどうなったのか。
第1回党大会が上海で開催されたとき、留学先の鹿児島から駆け付けたのが当時24歳の周仏海である。肩書は中国共産党の「日本代表」だった。
党大会後、日本に戻り、マルクス主義に傾倒していた京都帝大の河上肇のもとで学んだ。24年の国共合作後、共産党を離党し中国国民党に入党。汪兆銘政権で要職を務めたが、戦後、蔣介石政権に逮捕され、48年に50歳で獄死した。
東京の旧制一高に留学した李達は毛沢東の親友だった。党大会後の23年、「理念が合わない」として離党し、大学教授となった。
しかし、文化大革命中の66年7月、紅衛兵によって拘束されてしまう。持病の糖尿病や高血圧の薬をもらえず、毛に「命を助けてください」との助命嘆願の手紙を送ったが、無視されて翌月死亡している。
そして、日本語が流暢(りゅうちょう)で、党大会前に小説家の芥川龍之介のインタビューを受けた李漢俊はどうだったか。
国民党との協力を主張したが、共産党内で反対されるなどして23年に離党。ストライキなどの活動を続けたが、27年に軍閥の手で処刑された。37歳だった。
日本製の赤い遺伝子は消されていったのである。(敬称略)
中国・上海から30分ほど高速鉄道に乗ると、浙江省嘉興(かこう)に着く。今から100年前、中国共産党の第1回党大会に参加した党員たちは、上海から鉄道で3時間かけて嘉興に向かった。
党大会は1921年7月23日に上海のフランス租界で開幕したのだが、租界の警察の手が伸びたため嘉興にある南湖の屋形船へ会場を移し、そこで党の綱領などを採択したのだった。
今日、南湖には、屋形船を再現した「紅船」が浮かんでいる。6月のある日、10人余りのグループを率いる男性が額に汗を浮かべて声を張り上げていた。
「日々の仕事でも〝赤い遺伝子〟を発揮して責任をもってやり遂げなければならない!」
毎日のように訪れる党員や観光客にとって最も重要なのは、第1回党大会に毛沢東が参加していたことだ。それ以外は学習する必要はない。党の創建に日本との関わりがあったことなど知る由もないだろう。
■日本留学組4人
第1回党大会に参加した13人の中国人の党員には、日本留学組が4人いた。
封建社会が長く続いた中国大陸にあって、共産主義の思想や概念が内側から生まれてくることはなかったはずだ。そんな中国になぜ共産党が誕生したのか。
中国共産党に詳しい京都大人文科学研究所教授の石川禎浩(よしひろ)は「日本語の文献抜きには語れない」と話す。
共産主義の目的をマルクスとエンゲルスが明らかにした1848年の「共産党宣言」が、堺利彦らによって全訳されたのは1906(明治39)年のこと。この時代、当時の清国から日本に留学したり滞在したりした中国人は日本語の文献や教育を通じ、西洋の政治思想に触れることができた。
そのころ、日本に留学した中国人は8千人前後とされている。
石川は、「20世紀初頭の日本には西洋の政治や経済、社会や思想などを学ぶ書籍が(日本語に翻訳されて)そろっていた。中国人にとっては(ドイツ語や英語の)原書よりも漢字交じりの日本語の文献の方が理解が早かった」と話す。
日本に亡命中だった孫文が「Revolution」の日本語訳が「革命」であることを知り、それまで清朝打倒の運動で使っていた「造反」から切り替えた、との逸話も残る。
現中国の国号「中華人民共和国」のうち、「共和国」が和製漢語。「人民」もそうだとする説もある。「中国共産党」にしても、「共産党」そのものが和製漢語なのだ。
日本の影響がなければ、少なくとも100年前に中国共産党が誕生することはなかったと言っていい。
■助命嘆願を無視
第1回党大会から28年がたった49年10月1日、党創建メンバーの一人、毛沢東が北京の天安門楼上で共産中国の建国を宣言した。
このとき、第1回党大会に参加した13人のうち、毛沢東以外でまだ党員だったのは、後に国家副主席になる董必武(とう・ひつぶ)1人だけである。
党の創建に理論や思想で大きく寄与した知識人たちは、実務面で毛沢東ら活動家に歯が立たなかった。
どう運動すべきか、権力闘争を勝ち抜くにはどうしたらいいのか、といった知識は日本語の文献からは得られなかったのだ。
日本の私大で法律を学んだ董必武は日本留学組4人の一人だったが、果たして他の3人はどうなったのか。
第1回党大会が上海で開催されたとき、留学先の鹿児島から駆け付けたのが当時24歳の周仏海である。肩書は中国共産党の「日本代表」だった。
党大会後、日本に戻り、マルクス主義に傾倒していた京都帝大の河上肇のもとで学んだ。24年の国共合作後、共産党を離党し中国国民党に入党。汪兆銘政権で要職を務めたが、戦後、蔣介石政権に逮捕され、48年に50歳で獄死した。
東京の旧制一高に留学した李達は毛沢東の親友だった。党大会後の23年、「理念が合わない」として離党し、大学教授となった。
しかし、文化大革命中の66年7月、紅衛兵によって拘束されてしまう。持病の糖尿病や高血圧の薬をもらえず、毛に「命を助けてください」との助命嘆願の手紙を送ったが、無視されて翌月死亡している。
そして、日本語が流暢(りゅうちょう)で、党大会前に小説家の芥川龍之介のインタビューを受けた李漢俊はどうだったか。
国民党との協力を主張したが、共産党内で反対されるなどして23年に離党。ストライキなどの活動を続けたが、27年に軍閥の手で処刑された。37歳だった。
日本製の赤い遺伝子は消されていったのである。(敬称略)
中国共産党の第 1回党大会は、1921年 7月23日に上海のフランス租界で開幕したのだが、租界の警察の手が伸びたため嘉興にある南湖の屋形船へ会場を移し、そこで党の綱領などを採択したのだそうです。
そして、その第 1回党大会に参加した13人の中国人の党員には、日本留学組が 4人いたと。
封建社会が長く続いた中国大陸にあって、共産主義の思想や概念が内側から生まれてくることはなかったはずだ。そんな中国になぜ共産党が誕生したのか。
中国共産党に詳しい京都大人文科学研究所石川教授は「日本語の文献抜きには語れない」と。
共産主義の目的をマルクスとエンゲルスが明らかにした1848年の「共産党宣言」が、堺利彦らによって全訳されたのは1906(明治39)年のこと。この時代、当時の清国から日本に留学したり滞在したりした中国人は日本語の文献や教育を通じ、西洋の政治思想に触れることができた。
「20世紀初頭の日本には西洋の政治や経済、社会や思想などを学ぶ書籍が(日本語に翻訳されて)そろっていた。中国人にとっては(ドイツ語や英語の)原書よりも漢字交じりの日本語の文献の方が理解が早かった」と石川教授。
「Revolution」の日本語訳が「革命」であることを知った孫文は、清朝打倒の運動で使っていた「造反」から「革命」に切り替えたとの逸話があるのだそうです。
現中国の国号「中華人民共和国」のうち、「共和国」が和製漢語。「人民」もそうだとする説もある。「中国共産党」にしても、「共産党」そのものが和製漢語なのだと産経。
第 1回党大会から28年がたった49年10月 1日、党創建メンバーの一人、毛沢東が北京の天安門楼上で共産中国の建国を宣言。
このとき、第 1回党大会に参加した13人のうち、毛沢東以外でまだ党員だったのは、後に国家副主席になる董必武(とう・ひつぶ) 1人だけだったのだそうです。
日本の私大で法律を学んだ董必武は日本留学組 4人の一人だったが、他の 3人はどうなったのか。
第 1回党大会が上海で開催されたとき、留学先の鹿児島から駆け付けたのが当時24歳の周仏海である。肩書は中国共産党の「日本代表」。
24年の国共合作後、共産党を離党し中国国民党に入党。汪兆銘政権で要職を務めたが、戦後、蔣介石政権に逮捕され、48年に50歳で獄死。
東京の旧制一高に留学した李達は毛沢東の親友だった。党大会後の23年、「理念が合わない」として離党。
文化大革命中の66年 7月、紅衛兵によって拘束。毛に「命を助けてください」との助命嘆願の手紙を送ったが、無視されて翌月死亡。
日本語が流暢で、党大会前に小説家の芥川龍之介のインタビューを受けた李漢俊は、国民党との協力を主張したが、共産党内で反対されるなどして23年に離党。27年に軍閥の手で処刑されたのだそうです。
党の創建に理論や思想で大きく寄与した知識人たちは、実務面で毛沢東ら活動家に歯が立たなかった。
どう運動すべきか、権力闘争を勝ち抜くにはどうしたらいいのか、といった知識は日本語の文献からは得られなかった。
かくして、日本製の赤い遺伝子は消されていったのだそうです。
連載記事には、こうした知らなかった事実が数多く出てきます。今後も楽しみです。
# 冒頭の画像は、第1回党大会が開かれた浙江省嘉興の南湖で会場となった遊覧船を再現した「紅船」の前で記念写真を撮っている人々
この花の名前は、ギボウシ・ウィールウインド
↓よろしかったら、お願いします。