毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

旅立ち

2012年05月12日 15時55分01秒 | 奈良・実家・家族
ブログしばらくお休みしておりました。


う~ん、どう書き出せばいいかなぁ。。。





4月28日に、母が天に旅立ちました。


昨年12月あたりから 何が原因なのか からだに水が溜まってむくみが出始めていたのがいよいよひどくなり、最初は足だけだったのが 手や顔にまで広がって、目も開きにくいような始末になりました。

それでも頑として医者にかかることを拒否する母に どうしたらいいものやら途方にくれていた家族も、これ以上は・・・とついに動き、弟夫妻が主になって手配してくれて、母に断りなく近所のクリニックに往診を依頼。

当日20日、どんな騒ぎになることやらと心配した弟が実家に出向いて、いざ先生が見えたところで母に事情を話すと、拍子抜けするほど素直に聞き入れてくれたそうです。

診察の結果、水の圧迫もあって心不全状態にあり、また血中の酸素濃度が極度に不足していることもわかって、入院しなくて済むぎりぎりのところで まずは利尿剤で水を抜くことから始めることに。

前日あたりから歩くのも大変になっていた母、利尿剤投与の疲れも手伝ってか、ついに自力で立ち上がることが出来なくなってしまいました。

そんな様子を聞いて、22日夕方より急きょ奈良へ。

次々と顔を見せる子供たちに喜び、また家族にかかる負担を氣遣った母が、それまでの態度がウソのように「お医者さんでも介護ベッドでも あなた方が必要と思うものはなんでも頼んでちょうだい」と素直に言ってくれたおかげで、介護保険の申請からケアマネージャーさんや看護師さんの依頼、ベッドや酸素吸入器の手配と一氣に話が進み、25日夕刻には 父が病室用にと買ってきたテレビも含めて 看護体制がすっかり整いました。

薬の効果で水が抜け始め、 ひどかったむくみも 顔、手と上からだんだんとれていき、「足の水が抜けて筋力が戻ったら またひとりでトイレに行けるようになるね♪」と母を励ましながら、看護師さんに介護の仕方や要領などを教わって、さあ、これから長期戦でいくぞ、と思い定めた矢先。

28日午後、いつもと少しも変わらない母の様子に なんの不安もないまま、当座必要な介護用品や 部屋を居心地良くするためののれんやら枕カバーの替えやらを買いに、車で15分ほどの大型スーパーへ。

雑貨類を買ったあと、夕食は母の好きな散らし寿司にしようと材料をカートに入れ、レジに向かいかけたところに、父から携帯に連絡が入りました。

母が突然吐血して意識を失い 救急車を呼んだからすぐに戻ってくるようにと。

何が何やらわからぬまま 心臓をバクバク言わせながら家に戻ると、救急車がまだそこにいて、母の蘇生措置と搬送病院の手配が行われている真っ最中。

慌てて乗り込み 母の手を握り締めて、やがて決まった搬送先に父とふたり付き添っていきましたが、救急隊の方の応急処置の他、病院でも50分ほど機械での心臓マッサージを続けてくれたにもかかわらず、母の心臓の鼓動が戻ってくることはありませんでした。

4月28日午後6時34分、死亡確認。



あれから2週間か。。。

まだ2週間しか経ってないなんてウソみたい、とも思えば、2週間も過ぎたなんて信じられない、というような氣もするし。


こうしてあのときのことを思い出すと、やっぱり悲しくなって涙が流れたりもするけれど、お葬式のあとは どちらかというと淡々として 半世紀以上連れ添った妻に突然先立たれた父の暮らしの立て直しを手伝うべく家事にいそしむ毎日。

思えば 和歌山と奈良に離れて暮らしていた日々、母がいない生活を当たり前にしていたわけで、父と二人の毎日も その延長のように ご飯を作って 掃除洗濯をして 買い物に行って、冗談を言ったり ときには大声あげて笑ったり、新緑の季節も存分に楽しんで、普通といえばごく普通の暮らしを重ねて。

そんな中で、うたた寝のあとの起き抜けとか 面白い話を「あ!これお母さんにも聞かせたい」なんて不意に思ったりしたとき、これまでいるのが当たり前だった人の不在と、その穴が埋められることは二度とないんだという動かせない事実に、心の中にぽっかりあいた空洞と そこを隙間風が吹き抜けるような虚しい思いをただ感じている。。。感じているしかない。。。そんな時間が ときおりぽつんと入り込んできます。


「母の死・喪失」という三次元視点と、魂の旅の中でのあるひとつの体験という 少し離れたところからの落ち着いた視点、このふたつを行ったり来たりしている、そんな感じかな。


悲しいといえば悲しい、寂しいといえば寂しい、と同時に これまでにないほど濃厚な魂の時を過ごしているという不思議な充実感を味わう毎日です。