毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

送る儀式について考えた ・ その5

2012年05月30日 11時11分19秒 | 奈良・実家・家族
あれ?告別式の話まで もう終わったんじゃないの?

と思われたことでしょうが。。。

そのぅ、4回も引っ張っておいてなんなんですが、肝心の「~について考えた」のところが まだ。。。

なんて言ったら そこら中から石飛んできそうだ



冗談はさておき。

今回 自分が「遺族」になってみて初めてわかったこと。

それは、「お通夜や告別式は 亡くなった方のためだけでなく、いや むしろそれ以上に 遺された家族のための儀式だ」ということです。

無宗教の式と聞いて 担当のAさんが懸念を示したのが、「あとになって『ほんとうにああいうお式でよかったのだろうか』という迷いが生じないか」ということでした。

実際に、無宗教でお葬式をしたものの、あとになって「成仏できてないのではないか」などと不安に駆られたり後悔したりしたケースがあったようなのです。

それもわかる氣がします。

大切な人が逝ってしまって、悲しみや脱力感に襲われて 一番心もとないときに、多少なりとも氣力を奮い起こして手配をしなければならないのがお葬式というもの。

自分がその立場になってみて、今住んでいる山里の「自治会主導のお葬式」のいいところがよくわかりました。

どなたか亡くなられると、すぐ地区内にお知らせの放送が入り、出棺・お通夜・葬儀の時間や場所などが告げられます。

そして、準備のために葬儀社さんが来ると、先頭に立って指図をするのは自治会の役員さんたち。

自宅で葬儀をしない場合は 自治会集会所を使うのが定番になっていて、どこに何を置くかなどの段取りもすっかりわかっていますから、その手際の鮮やかなこと。

悲しみにくれる遺族が駆けずり回らずとも 万事うまく運ぶシステムが しっかり出来上がっています。

ただ、このスタイルの弱点は、自治会役員さんの負担が大きいこと。

うちの地区の前自治会長さんは、旅先でも 集落内で亡くなった方があると 連絡が入って呼び戻されたと話しておられました。

だから、これは 集落のみんなが身内みたいなもの、という土地ならではの形なのでしょう。

そういう昔ながらの形に代わるのが 葬儀社任せのお式というものなんですね。

ただ、葬儀社さんが主導してくれるのが 宗教がらみで スタンダードな形式が決まっている場合に限られてしまうのは やむをえないこと。

では、力を落とした遺族が わずかな時間の中で ほんとうに思い通りの式を企画実現できるのかと言われたら。。。

そこは、うちみたいに 遺族が先にたってガンガン取り仕切るっていうのが変ってるのでありまして(^_^;)、万事お任せでお願いしたいと思うのも当然でしょう。

だから、実際私もそういう氣持ちになりかけたけど、特に信心してなくても お葬式は仏式で、っていうのも大いにありだと思います。


その一方で。

こうしてブログ5回分も打ち込んで書いてしまうほどに 今回のお通夜や告別式の記憶が心地よく懐かしいものとなっているのは、自分たちが 母のためにこうしたい!と望むことをとことんやり切ったからであるようにも思うのです。

まあ、その原動力のほとんどは 弟と父、そして 家のことをすっかり引き受けて 陰から支えてくれた百々子さんとほーちゃんのおかげであり、私は恩恵をこうむったというのが正しいところなんですが(^^ゞ

当たり前のようにそばにいた人が 突然いなくなってしまう その喪失感。

自分の氣持ちをどう扱ったらいいのかわからないまま 亡き人への心残りや執着がじわじわと上ってくる。

お葬式って、ちょうどそういう氣持ちを消化し切れずもて余している真っ最中に執り行わなければならないんですね。

だからこそ、亡くなった人に精一杯のことをしてあげられたと思えるとき、また、まわりの人の温かい心が故人に降り注がれているのを目の当たりにしたとき、大きな満足や安らぎを覚えて 心が救われるんだと思うのです。

私に関して言えば、職業柄とはいえ 常に敬意をもって丁重に母を扱って下さった葬儀社の方々や、多くの方々がご参列下さって 温かい思いを向けて下さったことに、まず大きく救われました。

さらに、家族が力を合わせてひとつのものを納得いくまで作り上げた高揚感、そして これなら母もきっと喜んでくれるはずという手応えに、大いに慰められたのです。


実をいうと、あれ以来 「葬儀社さん主導で執り行える無宗教のお式」のアイデアが次々と湧いてきて仕方がないのです。

母の葬儀、ご参列下さった方々から後日聞かせていただいた限りでは 割と評判よかったみたいなのです(もちろん 優しいお氣持ちからそのようにおっしゃってくださってる部分も多々あると思うのですが)。

自分たちもあんなふうに出来たらいいと思うけど、音楽のプロではないし。。。というような。

たしかに 大半の部分を自分たちで企画するのは大変だし、プロに任せたほうがうまくいく部分も多いと思うのですが、ある程度の外枠を葬儀社さんのほうで基本コースとしてあらかじめ用意しておき、その合間合間に 各ご家庭の希望を出来る限り取り入れたオリジナルパートを挟めばいいのでは?と。

しばらく実家にいた間、父とこんなアイデアを出し合ってたら止まらないぐらい盛り上がって、もういっそのこと今からどこぞの葬儀社さんに就職しちゃおうか、なんてね(笑)

まあ冗談はともかく、昔ながらの仏式のお葬式もよいものですが、どんな場合であれ オリジナルを求める機運が高まってもいる今、一番納得がいく形で亡き人を見送って 遺された者の氣持ちも救われるようなお式が一般化するのも悪くないんじゃないかな、なんていう氣もするのです(^^)





はぁぁぁぁ、それにしても 長々と書いちゃったものだ。。。

いくらいい思い出とはいえ 過去のことにいつまでも頭がつかまってるのもなぁ、という氣がしていましたが、ここに存分に書かせていただくことで、ずっと私の中で溢れ返っていた思いも無事“成仏”できたようでございます

お付き合い下さったみなさま、ほんとうにほんとうにありがとうございました m(__)m