毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その3

2014年06月19日 22時42分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「Let it go」の訳詞探しをしているとき、こんなエピソードを目にしました。

このエルサというのは 当初は悪役のはずだったのだ、と。

それが、できあがった「Let it go」という曲が 製作者たちのエルサに対する思いを変えさせ、Wヒロインのひとりに変更されたのだと。

元の記事はこちら。





この記事で見る限り、この曲が生まれた時点で エルサはまだ悪役設定、そして「Let it go」は 今のままのこの曲だったようですね。

そのときの映画のストーリーやエルサの役割・立ち位置がどういうものだったのかはわからないけど、悪役の女の子にこの曲を歌わせようとした作曲者、ロバート・ロペスさんの思いって どんなだったんだろう?





いろいろな方が惜しげもなくブログ等に載せて下さった 原語に近い訳を読み重ねると、やはり最初のほうは、「こんな力を持っていることを誰にも知られないよう隠して、精一杯普通の女の子のように振舞ってきた」「けど いまや秘密を知られてしまった」「もういいわ、これでいい、背を向けてドアを閉めよう」といった内容のようです。

そう決心したことで 氣が軽くなったのか、そこから「もう恐れに支配されることも 泣くこともない」「ルールなんてないわ、私は自由よ」「完璧な女の子はもういない、自分の力を解き放つわ」と ぐんぐん自己肯定の力が増していく。

しかし、この自己肯定は あくまでも「もう私をわかってくれない世間なんでいらない」「悪と呼びたいなら 悪でけっこう」という開き直りのような決意が前提で、エルサがありのままの自分を認めれば認めるほど 「異分子としての自分」をも認めることになってしまい、世間との隔たりも大きくなる。

結果、エルサは「雪の女王」として、自分だけの世界に閉じこもってしまうんですね。




悪であることを 自ら堂々と認めたことで、エルサはれっきとした悪役の位置についた。。。当初はそういうニュアンスで書かれた歌だったのかな。。。

エルサを悪役にふさわしい立場に導くための歌、エルサが「悪」と呼ばれるにふさわしい存在になっていく過程を見せるための歌、そんな歌のつもりだったのかな。。。





で、ここから先は、私・貴秋の頭の中だけの、あくまでも想像に基づいたお話なんですが。

作曲者のロペスさんは、悪役のエルサのために この曲を書いた。

でもね。。。。曲のほうが 当初のロペスさんの意図を上回る力を持ってしまったんじゃないかと思うんです。





私が子どものころの漫画やアニメ、それに大人向けの時代劇や刑事ものなんかも、当時は「勧善懲悪」が主流だったように記憶しています。

登場人物をいちいち「これはいい人?悪い人?」と分類しながら見るのが当たり前のようになっていました。

その意識を 日常にも持ち込んで、善を選び悪を切り捨てるのが 人として正しい生き方だと思い込んできました。

たぶん、世の中全体が そういう傾向にあったのだと思います。





こういう分け方って、「行って かえる」の「行き」の道のりには しっくりきてたんでしょうね。

でも、今 流れは逆転している。

世のあり方も 人の心も 変ってきている。

かつて信じられていた「善と悪が存在する」という概念自体が、今は「そもそもそんなものなかったんだ、幻に過ぎなかったんだ」という認識にとって代わられようとしている。

「悪を滅ぼし 善が勝って めでたしめでたし」なんて価値観でやっていける時代じゃないんですね。





悪の役割を背負わされかけたエルサだけど、彼女の思いを歌い上げた「Let it go」には、ロバート・ロペスという素晴らしい作曲家によって そんな陳腐なレッテルを超えた力がこめられていて、映画製作者の方々は それを強く感じて、エルサをWヒロインのひとりに変更したんじゃないかという氣がします。

「これでいいの」と消極的にであれ、「ありのままの自分になって」と積極的にであれ、自分を肯定し 受け入れるということは、善悪の物差しを握り締めたままでは 決してできないことだもの。

「善」と それに対立する「悪」、こう二分した時点で、「悪」は 受け入れられるどころか いやおうなしに消され 滅ぼされ 切り捨てられる運命にあるのだから。

ありのままに受け入れるっていうのは、そもそも善悪とか正誤とか そういう線引きの必要自体ないんだと認めること。

そう思うと、この曲の持つ力によって エルサの役割が 悪役からヒロインに変更されたというエピソードが、私たちの価値観も信じるものも 「行き → かえり」という変化を経て 大きく変わったんだ、自分の中から見えてくる新しい答えに導かれて生きる時が来ているんだ、ということを象徴しているように見えてきます。

この「Let it go」は、今この時代に 生まれるべくして生まれてきた曲なんですね。

そして、そんな歌が大ヒットして 世界中で歌われているって、なんだかすごいことのような氣がするなぁ(^^)




25ヶ国の歌手が歌う「Let it go」




















「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その2

2014年06月19日 09時35分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


子どものころから、理不尽な仕打ちや納得いかない状況に怒りを覚えても 表現することを許されず、次第に自分で自分の感情を抑圧することに慣れ、あげくの果てに 半端ない量の怒りや恨みを溜め込んでしまった私。

そんな自分のありさまに目を開かれるにつれ、向かう先が 本来の“愛そのものである自分” だということは わかってきました。

しかしここで 厄介なジレンマに直面することに。



長年の抑圧の後遺症で、怒りを感じても、それをすぐさま表に出すことが 怖くてできないのです。

だから、ちょっと時間を置いて どうすればいいのか考えよう、と思うのですが、怒りのスイッチ自体は入りっぱなしなので、時間が経つにつれて どんどん膨れ上がり、より陰湿に変化していく。

抑えつけた怒りは、毒を溜め込みながら はけ口を その怒りを誘発した相手へと向け、心の中で相手を悪者にし、繰り返し攻撃しては 暴れ回ります。

そのたびに「私は本来の自分である『愛の人』に戻るのだ。こんなこといつまでもしていられない」と思うわけですが、ここで思いつける選択肢は 二つだけ。



ひとつは とにかく怒りを表に出すこと。

しかし、このときすでに 待たされたままの怒りは大きく膨れ上がって、しかも恨みがましく変形し 禍々しい毒氣を放っています

こんなものを相手につきつけても ますますこじれるだけ、とてもじゃないが 解決になるとは思えない

それではと、さまざまなアドバイスを頼りに 日記に書きつけたり 手紙にしたためて燃やしたり あれこれ試してみたのですが、一見うまくいったように見えても、後になって やはり恨めしい氣持ちがしっかり残っていたと思い知らされる、そんなことの繰り返し。

そのうち、内観や からだの感覚に注目することで、猛る氣持ちを静めたり 怒りが手に負えなくなるほど燃え盛る前に手を打って、時には相手に伝えることもできるようになりましたが、それでも怒りそのものがなくなったわけではなく、言葉に出して言うと決心するまでの逡巡や葛藤も相変わらず、ようやっと口に出したところで 後味の悪さが残るのも避けられない。



もうひとつは、一刻も早く 怒りを忘れ 愛である本来の自分に戻ること。

引き寄せの法則をはじめ さまざまなところでよく聞くのが、「なりたいと思っているうちは、その裏に潜む『まだそうなれていない』という氣持ちの方に意識が向き、そちらを実現してしまう。『すでにそうである自分』の氣持ちになりきり、そのようにふるまうことだ」というようなアドバイス。

これをいっしょうけんめいやってみたのです。

でも、できない。

こちらも うまくいったような氣がすることはあるのですが、しばらくすると「やっぱり怒っている自分」に戻ってしまう。



結局のところ、暴れまわる怒りを抑え続けるしんどさに負け 後味の悪さは覚悟の上で ぎごちなく相手に伝えるか、いくら表現してもすっきりおさまらない怒りと向き合うのに疲れ果て 解決していないことを承知の上で放置するか、のどちらかを選ぶしかなく、そんな状況を打開できないまま 何年も悩む羽目に(T_T)



このジレンマに光明がさし、新しい道が開けたのは、つい先日のこと。

ふいに氣がついたんです。

私はずっと 山のふもとから 頂上を目指してきた。

目指すゴールはずーっと一貫して同じ、間違っていないとわかる。

でも、一足飛びにたどりつけるわけじゃない。

先に 頂上があまりにもくっきり見えたものだから、いきなりそこに向かおうとしてしまったけれど、その間にまだまだ通り過ぎなければならない地点が いくらもあったんだ。



私はずっと、「愛である自分 = 怒りなど起こりえない自分」と思い、そうなろうと努めてきた。

結果、怒りを「あってはならないもの」と否定的に捉え、悪者にしていたんだ。

抑え込むつもりはなかったけど、結局抑え込んでしまっていた。

だから、かえって いつまでも そこから離れられなかったんだ。



なんで怒っちゃいけないって思ったんだろう?

たしかに、愛である自分が怒ることはありえない。

でも、今の私はまだそうじゃない、欠点だらけの未熟者だ。

だったら、それらしくふるまえばいいじゃない。

怒りたかったら怒ればいいんだ。

「なにこの怒りっぽい人」って思われればいい、かまわない。

だって、それが今のほんとうの私なんだから。



・・・ん? あれ?

これが、ありのままの自分を受け入れるってこと?




そう氣づいた瞬間の私、すぅ~っと心が軽くなり 喜びで一杯、まさに「Let it go」のエルサそのもの。




        ありのままの 姿見せるのよ

        ありのままの 自分になるの

        何も怖くない

         


        これでいいの 自分を好きになって

        これでいいの 自分 信じて

        光浴びながら 歩き出そう




  \(^o^)/         \(^o^)/         \(^o^)/






そしてね。

私の場合、スタートからいきなり 間をすっ飛ばして ゴールばかり狙い続けたおかげで、この中間地点に舞い戻ったとき、はっきりわかったんです。

ここが欠けてたんだ、「ありのままの自分を認めて受け入れる」というプロセスが。

ゴールに着くには、間を飛ばすことはできないんだ、一歩ずつ順に進まなければならないんだ。

はるか彼方のゴールは見えても、現在地点からゴールまでの道のりは見えない。

でも、いつも次の一歩だけは見ることができる。

その一歩を認め 踏み出すと、そのまた次の一歩が見えてくる。

エルサも私も、ありのままを認めること自体がゴールではないけれど、ここを通過したことで それまで足踏み状態で動けずにいた場所から 確実にゴールに向かって一歩前進できたんだ。

そうやって一歩ずつ進んでいくことだけが、確実にゴールにたどりつく道なんだ。


だから、これでいいんだ。



ってね(^^)