毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

仲間

2014年08月01日 19時50分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


久々に マンガ 「One piece」 からのお話を

マンガをご存知ない方には わからない話ばっかりで ごめんなさい m(__)m





「アラバスタ編」 で、海賊モンキー・D・ルフィ率いる 「麦わらの一味」 に加入したての船医 トニートニー・チョッパーが、古参の剣士 ロロノア・ゾロに 一味について尋ねるシーンがあります。

そもそも船長のルフィが あまりにも天真爛漫でマイペース、それにつられて集まったメンバーも どことなく個性的に過ぎ、通常の海賊団とはいささか雰囲氣の違う一味について、ときに苦笑交じりに話すゾロですが、そんな彼が語った 「仲間論」、これが すごくインパクトがあって。





      だがよ チームワークってのは本当は何なんだ

      助け合って かばいあってりゃ それでいいのか

      そういう奴もいるけどな

      わりぃがオレには誤魔化してるようにしか思えねえ

      それぞれが自分で出来ることを死ぬ気でやって

      オレはやったぞ 次はテメエの番だ

      出来なきゃぶっ殺す ぐらいの気合があって

      初めてチームワークってのは成立するんじゃねえか

      そう考えるとよ

      仲間っていっても別に一匹狼でもいいんじゃねえのか

      オレはそう思うぜ




それまで どちらかといえば、「助け合い かばいあう」 ようなのが仲間だというイメージを持っていた私が、自分の中の羅針盤への信頼が強くなり、自分の答えは自分しか持っていないんだ、と確信し、つき従うリーダーや 受け入れてくれるグループを探すのをやめて、単独行動をとるようになり始めた、ちょうどそのころ このセリフに出会って、ああ! と思ったのです。





その少し前から、この人なら、と信頼し、敬い慕って近づいた人の 思いがけない一面に失望するようなことが、たて続けに起こっていました。

どの人も、すばらしい才能や知恵や力を授かり、立派に使いこなして、大きな影響や恩恵を与えてくれたのですが、せっかくのその力で 相手をひとり立ちさせる代わりに、ご自身の弱さの補いとして傍に置き、離れていかないよう (無自覚なのですが)微妙に力を削いでいるように見受けられて。

初めのうちは、やたらこういう場面に出くわす意味がわからず、なんでいつもこんなことに。。。とがっかりしたり、腹を立てたりしていましたが、あるとき氣がつきました。

まわりの人は 自分の鏡、こうも同じようなことが続いて起こるからには もう間違いない、これはハッキリしたメッセージだ、と。

人をどうこういうことはない、これは 他ならぬ私自身の姿。

私は、自分の持って生まれた力や役割を見いだし、使いこなせるようになりたいと願っているけれど、もしそれができたところで、自分の中の我や弱さがそのままだったら、ほんとうに活かし切ることはできないんだ。

それどころか、ヘタをすれば、かえってマイナスのエネルギーを生みかねない。

なによりもまず、自分の弱点である 依存心や執着心と向き合うのが先だ。





このゾロの 「仲間論」 を知ったのは、ちょうどそんなころだったんですね。





麦わらの一味っていうのは、「悪魔の実」 の能力者もいれば 普通の人間ながら 常人離れした強さの持ち主もいる一方で、臆病だったり 嘘つきだったり 欲深かったりと、人くさい弱点を持つ者もいて、それぞれの長所や強みがチームに貢献することもあれば、弱さが足を引っ張ることもあり、また前述のように個性的な面々ぞろいなので、組織だったまとまりには いまひとつ欠けるところがあります。

メンバー全員が、ひとつのチームとしてグランドラインを航海するに当たり、それぞれ独自の目的や目標を持っているのも、この一味の特徴。

みな、そもそもは 船長のルフィに魅かれて仲間入りしているから、彼の 「海賊王になる」 という野望を応援しているのはもちろんなんですが、それとは別に 個人個人の夢もあって、めいめい腕を磨いたり 知識を高めたりしているのは、チームのためでもあり 自分のためでもある。

この辺が、チームでありながら 一匹狼の集団でもある、個性ある一味を形作っているんですね。





対人関係が苦手で ずっと孤立を選んできたのが、チームを組むことの楽しさ・頼もしさを知り、同時に 馴れ合いもたれ合いになる危なっかしさも知って、まずは自分がしっかりひとり立ちするところから、と思い始めた矢先に出会った、そんな 「仲間」 のありかた。

この距離感というか つかず離れずのさじ加減が、実にほどよく絶妙に思えたのです。





個として立派に通用するひとりひとりが、それぞれの道を進む中で、出会って ひとしきり共に旅をして、時が来れば 自然に別れる。

出会って 別れて、しょっちゅう顔ぶれが入れ替わりながら、それ自体が生き物のように 変幻自在で流動的で、常に新鮮かつ最高の状態を保ち続けるグループ。

そんな出入り自由のグループが そこらじゅうにいくつもあって、どれも生き生きしている。

それぐらいが、個人の自由と 集団の強みの双方を保てる ほどよい頃合いなんじゃないかな、って。





そして、もしほんとうに そんな個人とグループのありかたが実現できるとしたら、ちょうど自分の課題である 依存や執着を 各自が手放せていることが 必須条件だろうな、とも思ったのです。

麦わらの一味に話を戻せば、この面々、欠点や弱みはあっても、甘えはないんですね。

だから、シャボンディ諸島で 思いがけず全員が 別々のところに弾き飛ばされてしまったときも、再集結の約束を交わした2年後まで、それぞれが自分なりに 居場所や課題を見つけて 立派に生き抜き 成長し、約束の日には ひとりも欠けることなく集まって、チームとしてもひと回り大きく頼もしくなっている。

バラしてOK、組めば最強、多少の危うさもかえって人間くさく、甘えではない仲間どうしのよさをたっぷり見せてくれる麦わらの一味、相変わらずいいマンガだなぁって思います (*^ー^*)





前のブログで 「みんなで」 っていう話を書かせてもらったけれど、やたらおててつないでとか 数をたのんでとか そういうことでなく、個が個としてもっとも輝けるありかたとしてのグループ、そんなふうに歩みを共にできれば素晴らしいな、と憧れつつ、そんな仲間の一員に相応しい自分を目指して、きょうも自分磨きを続けます



























みんなで

2014年08月01日 01時31分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前のブログの 「神との対話」 の 「ヒトラーは天国に行った」 という話。

これは、内容の濃さからして、もし関心を持っておられるなら ぜひとも本をお読みいただきたいんですが、私なりにも もう少し続けさせてもらいますね。





「神との対話」 における この話題には、いろいろなエッセンスがぎっしり詰まっていますが、ここで取り上げるのは、グループ意識というところ。



      ヒトラーという経験が可能になったのは、グループの意識の結果だ。

      多くのひとは、ヒトラーがグループを ー この場合は国民を ー たくみなレトリックを使って狡猾にあやつったと言いたがる。

      こう考えれば、何もかもヒトラーのせいにして、ヒトラーだけを非難すればすむ。

      それこそが、大衆の望みなのだ。

      しかし、ヒトラーは、何百万人もの人びとが協力し、支援し、積極的に服従しなければ、何もできなかった。

      だからドイツ人と呼ばれる小グループは、ホロコーストの大きな責任をになうべきだ。

      しかし、ある意味では、人類と言う大きなグループにも責任がある。

      人類は、どんなに冷酷な孤立主義者でも無視できないほど惨事がひろがるまで、ドイツ国内の苦しみに無関心で、鈍感だったのだから。

      いいかね、ナチの運動を発展させた肥沃な土壌は、集合意識だった。

      ヒトラーはそのチャンスをつかんだだけで、創り出したわけではない。




長々と引用させていただきましたが、このくだり、初めて読んでから 今に至るまで、私の中で ずっと響き続けています。





たとえば、強引でひとりよがりで、世論の多くが反対していることも 白を黒と言いくるめてでも押し通そうという政治家を 非難するのはたやすいことです。

でも、どうしてそういう人物が 国家権力のてっぺんに立っていられるのか? といえば。。。。私たち国民に選ばれたからなんですよね。

そして、そういう人が登場する背景には、誰かリーダーシップをとって、すべての問題を解決し、私たちを安心安全なところへ導いてくれる人に、すべてを託してもたれかかりたい、自分たちは無力だから、誰か力のある人にやってほしい、っていう 私たちの氣持ちがあるんじゃないかな?

誰か強い人いませんか~、私たちを強力に引っ張っていってくれる人いませんか~、という 多くの意識の声に応えて、彼らは登場したともいえるんじゃないかな。

だとすれば、呼び出して 丸投げしておいて、結果が氣に入らなければ 悪者扱いで責め立てる・・・って、彼らだって そうそう納得できるものではないような





偏重報道といわれる大手マスコミにしても、お金を払って 新聞読みたい、ドラマ見たい、っていう人たちがたくさんいるから 経営が成り立っているんですね。

前に書いた 「パパラギ」に、「まやかしの暮らしのある場所について・束になった紙について」 という章があるんですが、「まやかしの暮らしのある場所」 とは 映画館、「束になった紙」 とは 新聞のこと。

酋長ツィアビがヨーロッパを訪れたのは、まだ無声映画だったころのことだから、その後 ヨーロッパはおろか 世界中の各家庭にまで 「まやかしの暮らし」 が入り込むとまでは 予想できなかったかもしれないけれど。

でも、ツィアビは そんな昔に すでに見抜いていたのです。

私たちが 映画(テレビ)や新聞を手放せないのは、ありのままの真実・等身大の自分を見つめ、自分の力で判断決定することを放棄せずにいられないほど、私たちが 弱くて迷い多い人間になってしまったからだ、と。

マスコミという存在を呼び出したのも、やはり それに頼ろうとする 弱められた私たちの意識なのかもしれません。

今は ネットを通じて、一方的にあてがわれるだけではなく 自分から情報を取りにいったり発信したりということも ずっと容易になりましたが、残念ながら、そこにもやはり 「我」と それに伴うもつれは 入り込んでしまうのですね。




私たちのまわりにあるものは、コンピュータやロケットから 爪楊枝1本にいたるまで、すべて最初は 私たちの頭の中から始まりました。

こんなものがあったら。。。。という一瞬のひらめきが、言葉になり、アイデアを生み、それが形になって現れたのが、私たちが取り巻かれている 物や場所やサービスなんですね。

私たちの意思や意図がなかったら、今あるものは なにひとつ生まれてこなかった。

そういう意味では、現在私たちを攻撃し、暮らしを圧迫しているように思えるものも、実はみな 私たちの思いから生み出された存在なわけです。

このままにしておけない、っていう氣持ちはもっともなことだけれど、それならなおさら 今みたいな流れになった経緯と 自分たちの内側に どんな思いがあるのかを つぶさに見直すほうがいいんじゃないかな。

氣に入らないものは すべて外に投影して糾弾する、というのでは、ますます相手を強くして、互いに自分の過ちに氣づけぬまま、かえって解決から遠のいてしまうだけだから。






既存のものをもっとよくしたいと思うとき、私たちは どうしてもまず行動から変えようとしてしまいがちなのだけれど、すべてのおおもとが 人間のアイデアや言葉から成り立っている以上、まず変えるべきは そちらなんじゃないかな? と思うのです。

かくいう私だって、その昔 原発が危ないと聞けば、よっしゃ~、反原発デモだ~、署名活動だ~、契約アンペア落として 煮炊きは七輪だ~! なんてさんざんやったクチなわけで ( ̄∇ ̄*)ゞ

そんなふうに 行動から現状を変えようといくら試みても、結果がついてこなかったり、モチベーションが続かなかったり、意図したのと違うところに着地しちゃったり、という体験を重ねたから 言えることなんですが





どんな人も、生まれる前に大まかに設定した 今生の筋書きがあり、自分の道を 好きなように選んで創る自由があります。

だから、人を外から無理やり変えることはできないし、そうしたいとも思わない。

でも、私たちが 本来の自分を目指すなら、そのおおもとはひとつなのですから、自ずと心を添わせることも そう難しいことではないでしょう。

類は友を呼ぶ、自分を見つめなおしつつ 源に向かって歩く者どうし 思いを重ねて、いのちに素直な集合意識を生み出すことができれば、今の時代の大きなよりどころになるんじゃないかな、と ささやかに願う貴秋なのです。