そもそも誰が言い出したんでしょうね。。。。。「男の子は泣いてはいけない」 とか 「強い子は泣かないのよ」 とかって。
相変わらず感覚フォーカスの毎日ですが、その最中に 不意に泣きたくなることがあります。
たしかに 感じ取っている感覚は そのほとんどが不快なものですが、だからといって泣くほどのことでもなし、ほかにこれといった理由も見当たらない。
そういうときは、「ああ、がまんしちゃってたのが出てきたんだねぇ」 と思います。
その感覚をリアルタイムで味わった 幼いときに、こみ上げてきた涙をぐっと飲み込んで こらえてしまったから、きょうまでずーっとそのまま抱え込んでいたんだろうな、って。
そして、何十年後のことになるのか、なにゆえの涙か、とんとわからないまま、改めて 泣きたいだけ泣かせてあげます。
自分の抑え込んでいる涙に氣づいたのは、和歌山に来て 少し経ってからのこと。
仕事がらみで なにやら悔しいことがあって、自室に戻ってからも 心が騒いで落ち着かない。
誰が見ているわけでもないのに 泣くまいとがんばっている自分に氣づいて、抑圧していたのは ほかならぬ自分自身だったと知り、ほんとうは ず~っと溢れんばかりに溜め込んだ涙を解き放ちたくてたまらずにいたのだと 初めてわかったのでした。
こんなムリをしたまま 何十年過ごしてきたんだろう。。。。。
悲しみも自然な感情だ。 ~ (略) ~
悲しいときには悲しんでいいんだよ、と言われて育った子供は、おとなになったとき、悲しみは健全だと思える。
だから、とても早く悲しみから抜け出せる。
「こらこら、泣いてはいけません」 と言われて育った子供は、おとなになって泣きたいとき、苦しい思いをする。
~ (略) ~ だから、悲しみを抑圧する。
抑圧されつづけた悲しみは、慢性的なうつになる。
非常に不自然な感情だ。
人びとは、慢性的なうつのために人殺しをしてきた。
戦争が勃発し、国が滅んだ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 (文庫版③巻より) の一節です。
同じように 抑圧されることで害を引き起こす感情に、怒り・羨望・不安・愛が挙げられていますが、自然な感情の発露を抑えつけるということが どれほどの悪影響をもたらすか、溜め込んだものの全解放を目指す今、日々身をもって 思い知らされて、心から同感です。
今からだに訴えかけてくる感覚は、その昔感じることを拒み、表面はにっこり笑ってなんでもないように取り繕ってきた、その後遺症ともいうべきもの。
よくまあこれだけと思うほど連日、不自然で不快な感覚にさらされ続け、身長154cmそこそこのからだの中に これだけの負が詰め込まれたまま 半世紀もきたのか、と思うと、なにやらそら恐ろしいような氣持ちになります。
そんな苦痛に満ちた危なっかしい爆弾を 一生抱えたままいることなく、今手段を得て 手放してゆけることを、心の底からありがたく思います。
ちなみに、「神との対話」 によれば、抑圧され続けた怒りは憤怒に、羨望は嫉妬に、不安はパニックに、愛は所有欲に、それぞれ変わるのだそうです。
いずれも 犯罪がらみのニュースやドラマでおなじみの感情ばかり。。。。戦いが起こって国が滅びるわけだ、と納得させられます。
いいかげん大人も子どもも、これ以上不自然に感情を抑えることなく のびのび表現できるよう、人前で感情の破綻を見せてはいけないという 私たちの 「社会常識」 を見直すときがきているんじゃないのかな。
深く考えることなく 「男の子が泣いたらあかん」 などと反射的に口に出されるような場面に出会うたび、ひやりとするものを感じます。
世界平和なんていう壮大な目標も、案外ひとりひとりが 自分の抱え込んでいるものに氣づいて手放す、という 地味で地道なところから始まるのかもしれません。