秩序と安定、私たちの暮らしを支える 大切な土台。
日はきょうも東から上って西に沈み、それにつれて 私たちの一日の営みも進んでいく。
時が巡り、季節が巡る、その安定したリズムの上に、私たちの暮らしは成り立っている。
と同時に、私たちの中には、決まりきった型を打ち壊して もっと新しいものを創り上げたいという、荒々しくダイナミックな欲求も潜んでいるのですね。
同じことの繰り返しは退屈だ、もっとよくしたい、新しくしたい、と 身の底から湧き上がる衝動。
保守と革新、どちらにどの程度針が傾くかは 人によってさまざまですが、人類全体、ひいては生物全体として見ると、このふたつがバランスよく備わっていて初めて、どこまでもいのちをつないで成長し続けられるのだと思います。
人間のこんな性質と 「変化しないものはないというのが 変化しないただひとつの決まりごと」 という普遍的法則とを考え合わせると、決まりきったパターンやシステムが どこまでも続くと信じ込むほうが そもそも間違いなのかもしれません。
時として、規則正しい繰り返しの上に成立している私たちの暮らしが大きく揺らぎ 壊れようとするのは、それまでのありようから導かれた結果ともいえます。
長く持ちこたえられるほど確かなものではなかった、もしくはいっそ壊れたほうがいいほど いのちにとっていいものではなかった、そしてよりよいものを創るチャンスが与えられたのだ、と。
幕末も今も、そういう意味で 決してすべての生命を愛し敬うようなシステムではなかったのですね。
となれば、直接の原因が何であれ、それは壊れるべくして壊れることになった、アポトーシスのような自浄作用だともいえるわけで。
とはいえ、自分の大切な暮らしが足元から揺さぶられれば、誰だって不安になるし、まずはなんとか元の安定に戻ろうとするのも無理はないことです。
でも、起こるべくして起こった崩壊は 押し留めようがないのですね。。。。個である私たちよりも もっと大きな力が働いているのだから。
そこで三次元視点ひとつしか持ち合わせていなければ、ほかに身の置き場はなく、先行きに不安しか見えないことになってしまいます。
でも、少し引いたところから眺め渡せば、同じ光景にも まったく違う意味づけをすることができる。
そしてどの時代にも、別の視点から新しい可能性を見出し 行動を起こす人たちが必ずいるのですね。
往々にして 周囲から理解されにくい人たちでもあるわけですが(^_^;)
引きの視点に立つとは、今自分が属している世界以外の世界があると氣づくこと。
幕末の人たちにとってのそれは、海の向こうの まったく異なる文化を持つ諸外国であり、今の私たちにとってのそれは、五感を超えた世界なのだと思います。
幕末の人たちにとって 異国が異質な風習や文化を持つ 摩訶不思議な世界に思えたように、今の私たちにも 五感を超えた世界なんて 怪しくいかがわしく捉えどころのない話に思えるのかもしれません。
でも、意識しようがしまいが 他国が存在していたように、五感を超えた世界も私たちの身近に存在し、それと氣づかぬまま そこからなにかを感じ取っている人も多いのです。
そもそも私たちの心臓だって 五感では掴めない不思議な力によって動かされているわけで、確かめることはできなくとも 確かににあるからこそ 私たちは生きていられる。
そんな力を敬い、その一部としての自分を感じてみることで、より広い視野から 世界のありようを眺めなおすことができるのですね。
そのために 特別な技術や才能は必要ありません。
誰でもそことつながれるし、事実つながっているのです、だって心臓ちゃんと動いているもの
ただそこに思いを向ければいいだけです。
幕末の混乱期に もっと知りたい・学びたいと望んだ若者たちは、自分たちを 大きな力に翻弄されるばかりの犠牲者だとは見ていなかった。
彼らの立ち位置は 冒険者でありチャレンジャーだった。
未知の世界に希望の芽を感じ、そこから学んで 自分たちの世界に生かそうとした。
今の私たちも同じようにできるし、現にしている人もたくさんいるはず。
そういう人が増えるほど、世界もよくなれば、あのドラマに共感を覚える人も増えて、視聴率が上がる手助けにもなるんじゃないのかな☆
・・・・・って、私別にN○Kの回し者でも 「花燃ゆ視聴率アップを目指す会」 (←あるのか?)のメンバーでもありませんからー
ただ、ああいうお話を自分たちと重ね合わせてわくわくできるような人たちが増えるほうが、この時代をそれだけ楽しく前向きに創っていけるんじゃないかな、という氣が、ふとしたのです。
その昔 「勝海舟」 や 「花神」 が大好きだった私が、ドラマに勝るとも劣らない激動の時代を 今生きている。
そんな事実に胸ときめかせつつ、「花燃ゆ」 製作者の方々のご健闘を ひそかにお祈りしています (*^ー^*)