きょう一番のお楽しみは、ピアノの練習♪
父がたっぷり2時間以上留守だったので、その間存分に。
学生時代 → ピアノ教師時代は 毎日のように弾いていたピアノも、和歌山に移ってからは とんとご無沙汰。
楽器が手元にないのだから 致し方なく (T_T)
それでも、いずれまたきっとピアノと暮らすぞ、すっかりなまってしまった手も 時間をかけて 昔の勘と技量を取り戻すぞ、という氣持ちを忘れたことはなく、今回の実家暮らしで ようやくそのチャンスが訪れたのです。
最初はゾンビかと言いたくなるぐらい ギクシャクして思い通りにならなかった手も、じっくり運指練習から再開することで 少しずつ動きがなめらかに。
練習を一日休めば 調子が落ちたのがありありとわかるといわれる演奏の世界、10年以上ろくすっぽ鍵盤に触れてもいなかったものが そう簡単に復調できるはずがないと思い込んでいたけれど、今の自分には そんな大きなブランクを補って余りあるほどの 新しい力が備わっていたのです。
まず、筋繊維一本ずつといいたくなるほどの微細な感覚にまで及びそうな からだのかすかな状態さえ キャッチできるようになっていたこと。
さらに、「できない」 「できっこない」 という否定的な思いを じっくり味わって手放す術を 身につけていること。
どちらも、感覚フォーカスの積み重ねの賜物。
自分の指、腕、肩、背中から足腰、すべての連動するさまを仔細に感じ取りながら、バランスの崩れているところを見つけ出しては 微調整して、最盛期の調子を取り戻してゆく一部始終の なんと楽しいことよ。
思えば これって、本来の自分のありようを取り戻してゆくプロセスと同じなんですね。
「弾く」 ということが、以前とまったく違った意味合いを帯びてきます。
以前の私は 他者から評価されるために弾いていた、今の私は ただ氣持ちの赴くまま 無心に弾くだけで 十分満たされている。
「できた!」 の連続の なんとワクワクすることか。
2時間があっという間、これほど集中して 無我夢中で練習を楽しんだのって 初めて \(^o^)/
同じ行為なのに その質も意味も 以前とまるで違う。。。。ほんとうの自分でないものを手放した報いは こんなところにも現れているのだと、強く意識させられたひとときでした。
あ~、ほんとうにいい日だった
おしまいに、きょうもちょこっと写真をば☆
夕方の散歩
大和川の土手の下
きょうの夕空は 優しい表情
夕日に照らされた梅の花
盛りは過ぎてしまったようだけれど、こっちでも咲いているところを見られてうれしかったよ
今度はちゃんと アップで撮れたしね
もう一度、ほんとうにいい一日でした (*^^*)