毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

シュレディンガーの 堀井さんと 私たち

2016年02月28日 13時39分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


24日の 「相棒 ・ 第17話」 が、尾を引くともなく引いていて、いったいなんなんだ~? と思っていたのですが。




25日に引き続き、また 「物理学者と猫」 のお話。

内容にも触れることになりますので、お読みになりたくない方は、ごめんなさい、ここまでで m(__)m













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パラレルワールドの概念を 日常に持ち込むと どうなるか。

たとえば、不機嫌な私と出くわした誰かが 不機嫌な言動で応酬したとします。

そこで一氣に揉め事にまで発展させることもできますが、そこはやり過ごし、ひとりになって なんとか氣分を立て直すことに成功する。

そして、再び件の人物と出会うと、なぜか向こうも さっきとは別人のように愛想がいい。

相手も自分と同じように氣分を変えたのだ、と見ることもできますが (っていうか そう見るほうが一般的なのでしょうが) 、ここで思ってみるのです、自分の氣分が変わり 波動が軽くなったことで、それに見合う並行世界に移動したのだと。

目の前の相手も 今いる場所も、さっきとまったく同じように見えて、実は 少しバージョンの違う別人であり 別世界なのだ、と。




パラレルワールド概念が 比較的ポピュラーになったのって、よくはわかりませんが、家庭用ゲームの功績が大きいんじゃないかっていう氣がします。

特に ストーリー性の高いゲームにおいては、納得いかない結末に導かれては やり直す、というのは、まさにパラレルワールドの移行そのもの。

自身をゲームの主人公に重ね合わせ、選択を変えることで 移行を疑似体験するわけです。

さらに ゲームの世界がアニメ化されることで、パラレル概念は いっそう親しみやすく浸透ていった感があります。




ここで面白いのが、当ブログで毎度おなじみ、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 で、「すべてはすでに起こっている」 というテーマで “神” が ゲームを例えに持ち出していること・・・・・これ 前にも書いた氣がしますが。

つまり、起こりうるあらゆるバージョンの自分が すでに潜在的に存在していて、私たちが その中のひとつを選択すると その世界が実現し、それ以外は 可能性のまま残される、と。

けさの味噌汁の具を大根にすると、それ以外のすべての具材は 「可能性のまま 実現しなかった世界」 として 闇に沈む。。。。なんちゅー卑近な例えだ(笑)

卑近過ぎて いっしょにするのは氣が引けますが、「シュレディンガーの猫」 の話も 要はこういうことなんですよね。




25日のブログでリンクを貼らせていただいた3つの記事で学んだところによれば、シュレディンガーさんの説に さらにノイマンさんやエヴァレットさんのアイデアが加わり、私たち人間ひとりひとりも 起こりうる複数の世界に 可能性として存在し、その中から 私たちが自身の意志で選び取った世界が 現実となる、という説が浮上した、ということのようです。




ここでようやっと、「相棒 ・ 物理学者と猫」 (^_^;)

何の悪氣も落ち度もなく、ただ有能すぎるがゆえに 理解されずにきた 堀井准教授に、おそらく初めてであろう 理解者が現れた。

共感し、賞賛し、励まし、後押ししてくれた。

その喜びは 想像に難くなく、それだけに その理解者を失った痛みの激しさも偲ばれるのですが、大きすぎるその痛みに囚われ 支配されて、彼の世界は 何度繰り返しても 悲惨な結末に行き着いてしまいます。




パラレルワールド視点を日常に持ち込むことの利点は、「自分の選択が 自分の世界を創る、そして、何を選ぶかは 自身の自由意志で選べる」 という意識が持てること。

しかし、長年にわたって私を苦しめたのは、自由なはずの選択が なぜか自由にならないこと でした。

だから、堀井氏が どこで引っかかって エンドレスループに閉じ込められたのかも わかる氣がします。

彼は、大切な人を失った深い悲しみを 十分に味わって手放すことができなかったのです。

その結果、持ち続けた悲しみが 憤りに変わり、はけ口を求めたそのエネルギーが 「彼女は殺された、犯人は○○だ!」 という思い込みを生んだり、犯行を告白した相手への殺意に変わったりしたわけです。

遡るたびに シチュエーションは変わるのですが、彼が悲しみ → 怒り → 憎しみ という感情パターンを手放せなかったため、何度繰り返しても 辛いエンディングに行き着いてしまったのです。

彼自身も うすうすそのあたりを感じてはいたようですが、選択の自由をどうすれば取り戻せるかはわからない、その苦しみが 「僕に 他にどんな世界があるというんですか」 という あの悲痛なセリフに込められていたように思います。




私なりに言わせていただけば、ブレイクスルーの鍵は、「堀井氏が 自身の行動を一定の型に縛り付けている感情パターンに氣づくこと」 だったと思うのです。

私が出会った とてつもなく大きな手がかりは、「感情よりも前に からだの感覚が起こる」 という情報でした。

堀井氏で言えば、大きな支えや励ましを失った悲しみや喪失感、その引き金となる ある種のからだの感覚があったはずなのです。

喉元の圧迫感とか、胸がきりきり締めつけられる感じとか、激しい動悸とか、空氣が抜けてゆくような頼りなさとか。




悲しい、悔しい、どうしてこんなことに、悪いのは誰だ、復讐してやる、などと、言葉によって 感情がエスカレートし 憎悪の世界を紡ぎだす前に、言葉にならないこの感覚に集中し、味わい尽くせたら。

私がさんざん試したところでは、時間の長短はありますが、きちんと集中し 見つめ 感じ切れば、こういう感覚は いずれは消え、その支配力も 失われるようです。

その結果 視点が変わり 視野が開けて、ごく自然に 新たな選択肢が出現するのです。

無理やり 見方思い方を変える必要は ありません。

おのずとそうなるのです。




堀井氏については、彼の代わりに 右京さんが 新たな視点を提供してくれたのですね。

おかげで真相が明らかになり、煮えたぎる憎悪から解放された彼には 右京さんの適切な示唆で 「研究を完成させる」 という新たな道が開けた、と。




私たち誰もに 右京さんのような頼もしい助っ人が さっそうと現れてくれるわけではないでしょうが、自分を捕らえて離さないネガティブな感情を、言葉になる前の大元から見つめ 受け止めることは、誰にでも可能です。

感覚フォーカスに限った話ではなく、瞑想でも、祈りでも、楽しみに没頭するのでも、セラピストやヒーラーの力を借りるのでもなんでもいい、これと思うやり方で、自分なりに 手にした鍵を使い、迷宮から抜け出して、新しい希望の世界を生きるチャンスがあるのです (^^)




このドラマを創った人が意図してのことかどうかはわかりませんが、今回の 「物理学者と猫」 には、そんなメッセージが込められていたような氣がしてなりません。




長文なので 2回に分けようかとも思いましたが、余計長くなりそうで、ええい! と一氣にアップしてしまいました。

おしまいまでお読みくださって ありがとうございました。