毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「いい」 も 「悪い」 も見ようで同じ

2021年07月17日 09時02分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
1月下旬からこっち、ひたすら身の内に溜まった怒りの手放しに勤しんできたとお話ししましたが、いつものことながら 意図して行なうのは感覚フォーカスだけ、あとのことはすべて 向こうから勝手に起きてきます。

今回起きたことのひとつは、「体験」 というものの見方が変わったこと。

それまでは いい氣分になれれば喜び、ネガに転じればどうにかせねばと問題視するのが常でしたが、いつのころからか いい氣分も悪い氣分も等しく 「体験」 であることに変わりはない、と思うようになったのです。

そもそも魂は いい体験ばかりを望んだわけではない、むしろ 本来の自分にはない要素をこそ体験したかったのだから、いやな氣分を味わわされたからといって がっかりすることも 自分を貶めることもない。

体験する魂という観点からいえば いいも悪いも等価値、いい氣分になったら 「あ、『いい』を体験したんだな」 、悪い氣分になったら 「あ、『悪い』 を体験したんだな」 とそれだけでいいではないか、と。

この捉え方が板についてくるにつれて、ネガティブな事象についての見方も変わってきました。

それまでは、なにかにつけて 「いい」 と 「悪い」 にきっちり分けないと氣が済まず、「悪い」 に入ったものは 他者についてはあげつらい 見下し こきおろしてきたし、自身については受け入れられないまま外部に投影して 問題そのものはスルーしてきましたが、まず自分を責める必要がなくなって 問題とも向き合いやすくなり、続いて他者のことも同様に責めることなんてないんだ、と思えるようになってきました。

瞬間 「なにあの人!?」 となっても、続いてすぐ 「ああそうか、誰でも自身の魂が定めた道のりを粛々と歩きながら 課題に取り組んでいるんだよなぁ」 とのつぶやきが聞こえてきます。

自分のことがそういうふうに見えるようになると、タイムラグはあっても 他者のことも自動的にそう見えるようになるものらしいですね。




人間以外の生き物は、つねに本能に導かれるまま 定型パターンを踏襲し、自然の流れを大きく外れることなく歩み続けています。

生活習慣も 食べるものも 巣の形状も 特別な理由がない限り 代々受け継がれたものを変えることはなく、周囲の環境と調和して種を保ち 数千年数万年の長きにわたって存続しています。

が 人間は、「自我」 「自意識」 というものを持ったことで バラエティ豊かに枝分かれし、種として驚くほど多彩な体験を積むことになりました。

知識的技術的には大躍進を遂げながら、情緒面の発達や熟成が追いつかず、左脳肥大のまま いまや自らの技術の誤用で人類を滅亡させかねないところまで来ています。

これを 「人類ってなんてアホなんだ」 と苦々しく見ていたときもありましたが、いまは 人以外の動植物の迷いない生き方のまっすぐさ ・ 清らかさに魅かれると共に、ありったけの絵の具をぶちまけ引っ掻き回したような人類の歩みの痕跡にも、「まあとにもかくにもがんばってきたんだよね」 となにやらいとおしさを覚えます。




自我の働きのおかげで、魂の望みどおり 本来の自分からどんどん離れて 不条理の限りを味わってきた私たちも、ちょうどあのバブルが弾けたあたりを境に (と貴秋は感じているのですが) 方向転換して、今度は本来の自分へと戻る道のりを歩き始めました。

あとは人として成熟し、叡智を尽くして状況を好転させ 進化の道を行くか、滅亡するかの二つに一つだと思っています。

それも 「中間地点で日和見」 が許されない、枝分かれギリギリのところにさしかかっていると感じます。

どちらの道を行くも自由、そんな情報すら知らない ・ 受け付けないでいることも自由。

ただ、自分が選べば 自分の世界は選んだとおりになる、と思うようになりました。

次はこのあたりについてお話させていただきますね。