本来の自分に戻るとは、自分が自分であることが 心地いいと思えること。
まわりの評価は関係ない、特別何かに抜きん出て 他者にアピールする必要もない。
してることはいつもと変わりないのだけれど、自分の中心に芯がすっと通っている感じがして、地に足ついて心穏やかでいられる。
外からどう見られるかではなく、内からどう感じるか、つまり自分軸ということですね。
あるがままの自分で安定していられる、これを 「静かな自信がある」 と言い換えてもいいでしょう。
ところで 最近テレビを見なくなったとお話しましたが、中でも見なくなったのが、スポーツ番組。
折りしもオリンピック開幕直前だそうですが、まったく食指が動きません。
嫌いになったわけではなく、ただなんとな~く見る氣がしなくなって。
この 「なんとな~く」 の中身をもう少し掘り下げてみると、あの勝敗へのこだわりとか アナウンサーや解説者の煽りっぷりが どうも氣が重いんですね。
スポーツっていったいなんなんだろう、なんのためにあるんだろうって思っちゃう。
以前は スポーツ = 健康な肉体の象徴 だと素直に思っていましたが、よくよく見ると スポーツ選手って怪我や故障が多いですよね。
貴秋はスポーツオンチだけれど、怪我で手当てを受けた記憶って 小学生のときの捻挫ぐらいしか思い浮かびません。
スポーツは肉体の可能性を伸ばし 限界を押し広げるっていう話もあるけれど、いまやおおかたの競技の記録の伸びは頭打ちでしょう?
ただ計測機器の性能の向上で、零コンマ何秒だの何ミリだのって測れるようになったおかげで、わずかな差を捉えて 勝者を特定できるだけで。
髪の毛一筋ぐらいの差で勝者と敗者が分かれるんだんもの、その一筋のために必死でトレーニングを積むのも大変ですよね。
そこでからだの機能をいかに高めるかということになって、そこにも科学の力が用いられるようになってきたとか。
スポーツ科学の研究成果を駆使して 限界ギリギリまでトレーニングして、でもひとつ加減を間違えると 大怪我や慢性的な故障につながってしまう。
それって、健康というよりむしろ不健康な肉体の量産になってません?
しかも さらに科学の力で ウェアやシューズや使う道具の開発改良もヒートアップ、でもそれには大層なお金がかかるから、そういうものをバンバン使えるのは 有力なスポンサーがついた先進国の選手だけ。
ここでもまた出てきた経済格差、お金がかかる装備のおかげで取れる金メダルって。。。もう スポーツ = 健康 のイメージなんて吹っ飛んじゃいますね。
いや、さらにすごいことが起きているという話も。
どの競技でも ドーピングにはつねに厳しい目が注がれますが、これが規定にない未知の薬物だと引っかからないそうで、そちらの研究開発が秘かに進んでいるとか。
なにもそこまで・・・と思っていたら、今度は競技能力を高める遺伝子を細胞に組み込むなんて話が飛び込んできました (汗)。
一方パラリンピアンの世界では からだの一部として働く義手や義足の性能が著しく向上しているそうですが、健常者の選手からすると 道具を使って記録を上げることへの抵抗も根強いそうで、もし今後 日進月歩の技術の向上により パラリンピアンの記録がオリンピアンを上回るようなことにでもなったら、いったいどうなるんでしょうね。
・・・・とこんな話ばかり聞かされていると 胃もたれするようで、スポーツの華やかさ ・ 晴れがましさよりも 評価のためにここまでしなきゃならないのかという重苦しさのほうが先に立つようになってしまった。。。。それが スポーツ番組に手が出なくなった理由のようです。
ごめんなさい、アスリートであれ科学者であれ、夢を追いかけて懸命の努力を続けている人たちをあげつらうつもりはないのです、誰にでも好きなことに好きなように打ち込む権利があるのだから。
ただ貴秋は、スポーツのありようがいまのままならノーサンキューだなというのが 正直なところです。
私たちは 子どもの頃からあらゆる面で競い合うように仕向けられ、勝者になってこそ いい社会的地位やいい暮らしを手に入れることができるのだと叩き込まれてきました。
でも、それもそろそろ見直す時期にきてるんじゃないかと思います。
自分の素晴らしさは、誰に教えられるものでもない、自身の内側から感じるもの。
いまの貴秋は 断然こちらのほうがいい、もう優等生だった昔のように、勝ち上がってなんぼの世界と取り替えたいとは思いません。
内からくる自信や輝きは、私たち本来の 当たり前のありようであり、どんな条件と引き換えに手に入れるのでもない無条件のもの。
外から与えられることも奪われることもない、人としてもっとも確かな手応えです。
まわりの評価は関係ない、特別何かに抜きん出て 他者にアピールする必要もない。
してることはいつもと変わりないのだけれど、自分の中心に芯がすっと通っている感じがして、地に足ついて心穏やかでいられる。
外からどう見られるかではなく、内からどう感じるか、つまり自分軸ということですね。
あるがままの自分で安定していられる、これを 「静かな自信がある」 と言い換えてもいいでしょう。
ところで 最近テレビを見なくなったとお話しましたが、中でも見なくなったのが、スポーツ番組。
折りしもオリンピック開幕直前だそうですが、まったく食指が動きません。
嫌いになったわけではなく、ただなんとな~く見る氣がしなくなって。
この 「なんとな~く」 の中身をもう少し掘り下げてみると、あの勝敗へのこだわりとか アナウンサーや解説者の煽りっぷりが どうも氣が重いんですね。
スポーツっていったいなんなんだろう、なんのためにあるんだろうって思っちゃう。
以前は スポーツ = 健康な肉体の象徴 だと素直に思っていましたが、よくよく見ると スポーツ選手って怪我や故障が多いですよね。
貴秋はスポーツオンチだけれど、怪我で手当てを受けた記憶って 小学生のときの捻挫ぐらいしか思い浮かびません。
スポーツは肉体の可能性を伸ばし 限界を押し広げるっていう話もあるけれど、いまやおおかたの競技の記録の伸びは頭打ちでしょう?
ただ計測機器の性能の向上で、零コンマ何秒だの何ミリだのって測れるようになったおかげで、わずかな差を捉えて 勝者を特定できるだけで。
髪の毛一筋ぐらいの差で勝者と敗者が分かれるんだんもの、その一筋のために必死でトレーニングを積むのも大変ですよね。
そこでからだの機能をいかに高めるかということになって、そこにも科学の力が用いられるようになってきたとか。
スポーツ科学の研究成果を駆使して 限界ギリギリまでトレーニングして、でもひとつ加減を間違えると 大怪我や慢性的な故障につながってしまう。
それって、健康というよりむしろ不健康な肉体の量産になってません?
しかも さらに科学の力で ウェアやシューズや使う道具の開発改良もヒートアップ、でもそれには大層なお金がかかるから、そういうものをバンバン使えるのは 有力なスポンサーがついた先進国の選手だけ。
ここでもまた出てきた経済格差、お金がかかる装備のおかげで取れる金メダルって。。。もう スポーツ = 健康 のイメージなんて吹っ飛んじゃいますね。
いや、さらにすごいことが起きているという話も。
どの競技でも ドーピングにはつねに厳しい目が注がれますが、これが規定にない未知の薬物だと引っかからないそうで、そちらの研究開発が秘かに進んでいるとか。
なにもそこまで・・・と思っていたら、今度は競技能力を高める遺伝子を細胞に組み込むなんて話が飛び込んできました (汗)。
一方パラリンピアンの世界では からだの一部として働く義手や義足の性能が著しく向上しているそうですが、健常者の選手からすると 道具を使って記録を上げることへの抵抗も根強いそうで、もし今後 日進月歩の技術の向上により パラリンピアンの記録がオリンピアンを上回るようなことにでもなったら、いったいどうなるんでしょうね。
・・・・とこんな話ばかり聞かされていると 胃もたれするようで、スポーツの華やかさ ・ 晴れがましさよりも 評価のためにここまでしなきゃならないのかという重苦しさのほうが先に立つようになってしまった。。。。それが スポーツ番組に手が出なくなった理由のようです。
ごめんなさい、アスリートであれ科学者であれ、夢を追いかけて懸命の努力を続けている人たちをあげつらうつもりはないのです、誰にでも好きなことに好きなように打ち込む権利があるのだから。
ただ貴秋は、スポーツのありようがいまのままならノーサンキューだなというのが 正直なところです。
私たちは 子どもの頃からあらゆる面で競い合うように仕向けられ、勝者になってこそ いい社会的地位やいい暮らしを手に入れることができるのだと叩き込まれてきました。
でも、それもそろそろ見直す時期にきてるんじゃないかと思います。
自分の素晴らしさは、誰に教えられるものでもない、自身の内側から感じるもの。
いまの貴秋は 断然こちらのほうがいい、もう優等生だった昔のように、勝ち上がってなんぼの世界と取り替えたいとは思いません。
内からくる自信や輝きは、私たち本来の 当たり前のありようであり、どんな条件と引き換えに手に入れるのでもない無条件のもの。
外から与えられることも奪われることもない、人としてもっとも確かな手応えです。