Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

エコール

2009-04-16 | 外国映画(あ行)
★★★☆ 2004年/ベルギー・フランス 監督/ルシール・アザリロヴィック

「天の邪鬼」


人里離れた美しい森の奥深く、外界から隔離された大きな屋敷に6歳の少女イリスが棺の中に入れられて運ばれてくる。少女たちは年齢に応じた色のリボンを三つ編みに結わえる習わし。そして、少女たちはダンスと生物の勉強に明け暮れる。 もうすぐ卒業する紫リボンのビアンカは夜な夜な森の奥へと出かけるのがイリスは気になって仕方ないのだが…。

幼児性愛者が見たら涎を垂らして喜びそうな映像のオンパレードで、これで芸術もへったくれもなかろうという問題作だと思います。棺に入れて運ばれてくる、ということ自体、一回死んでこの学校で何かに生まれ変わる、という意味でしょう。では、一体何に生まれ変わるのか?

この学校で行われているのは、ひとえに少女であることの価値を己の心と体で思い知る、ということです。そこに快楽を覚える者もいれば、脱落する者もいる。その結果、卒業した少女はどういう存在になるのか。ラストの噴水シーンが示しています。一目で男が気に入る女、ということでしょうか。空に向かって盛大に突き上げる噴水は、射精をイメージさせるのですが、それだとあまりにも素直すぎかしら。このエンディングをどう捉えるかによって、学校の存在意義も多種多様な解釈が生まれると思います。「服従することが幸福への近道」というセリフから、私はそのように想像しました。常に服従し、常に評価される環境がもたらすもの、それは「媚び」以外の何物でもありません。

そう考えると、この森は社会の縮図なのかも知れません。大人の男は少女を品評する存在であり、大人の女は少女を導く人に見えて、その懐には入り込まぬ冷たい存在です。そういう社会に対する強烈な批判が込められているのかも知れない。

少女にリボンをつけ、羽根を付け、バレエを踊らせる先生たちに吐き気を覚えるでしょう?でも、世の中の親たちはみな、同じようなことをしています。我が娘にリボンを付けピアノの発表会に行かせ、我が娘にチュチュを着せダンスの発表会に行かせていますもの。女は少女である時、「見られること」「評価されること」から逃れられないのです。

と、勝手に解釈しましたけども、結局はどんな主張であろうと、幼い子供を次から次へと裸にするような悪趣味な表現にしなくともよかろう、ということに尽きるのでしょう。カメラもローアングルが多いですし。しかし、無垢な少女が水遊びをするのを見て、いやらしいと思ってしまう我々はすでに同じ穴のムジナだと言われているような気もしますね。そういう確信犯的な表現を卑怯だと感じるかどうか、この辺りはまさに個人の感覚的な部分によるところが大きいと思います。まあ、ほっこりししたいいお話のくせに、少女は大股開きで膨らんだ白いパンツが見える某有名アニメのサブリミナル効果の方が私は不気味です。なんせ天の邪鬼なもので。