Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

サッド ヴァケイション

2009-04-24 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2007年/日本 監督/青山真治

「青山流ギリシャ悲劇にてとどめ」


「Helpless」「ユリイカ」と続けて見ましたが、私にはこれを「母性の物語」と捉えることはできません。その件は、後回し。

本作、私には健次の悲劇が完結したという印象です。「Helpless」というタイトルは、本作の方がふさわしい。美しい髪を蛇に変えられたギリシャの魔神メドゥーサは、見るものを石に変えることができる。健次は、まさにメドゥーサのごとき実母によって石に変えられてしまいました。成り行き上とは言え親友の妹を引き取り、密航者の子供をかくまい、女を愛することも知り、人としての優しさを随所にかいま見せる健次に何という仕打ち。兄が弟を殺し、実母が兄を地獄に突き落とす、さながらギリシャ悲劇のような顛末に唖然とします。

「会うべき人に会うのだ」という川津裕介の言葉もあり、人には抗うことのできない宿命が用意されている、とも捉えられます。千代子が健次を捨てたのも、健次が偶然千代子に再会したのも宿命であった。その人生を受け入れなければならなかったのに、健次は浅はかな復讐劇を企てたがために人生を狂わせてしまったのでしょうか。健次が哀れでなりません。

さて、千代子という女性の資質を母の包容力と捉えることには違和感を覚えます。包み込むというよりも呑み込む、と言った方が適切でしょう。もし、「母性」という言葉を「母親が持つ性質全般」を意味するならば、彼女から母性の「ひとつの側面」として際立ってくるのは、子供を手中に収めておきたいという支配欲です。これは、実に一方的な欲望で、子供を苦しめることはあっても、幸せにはしません。そういう類の母性です。この支配欲は子供が小さい時には守られている安堵感を子供に与えるため、良きことのような錯覚を母親自身に与えますが、子供が成長するに連れて手放さねばならない代物です。しかし、千代子は小さい頃に健次を捨てているため、その続きを間宮運送で行おうとするのです。こんな横暴な女性は、母と呼ぶにすら値しない。しかも、千代子は健次に刑務所の面会室でとどめを刺します。子供を救う母親はいても、子供にとどめを差す母はそうそういません。しかし、考えようによっては、それもまた母の権利と言えるのかも知れません。「自分で生んだ子供に自分でとどめを刺して何が悪い」と。

私が、この千代子を通じて感じるのは、あくまでも「母性」の負の側面です。とりわけ、長男に対する異常な執着ぶりというのは、是枝監督の「歩いても、歩いても」や西川監督の「蛇イチゴ」でも、見受けられます。しかし、青山監督は母への復讐を許さない。前作「ユリイカ」でバスジャックの生き残りとなった直樹はとある行動に出るのですが、私はあれは自分を捨てた母への復讐の代替行為だと感じました。そして、健次同様、彼も刑務所に入ってしまう。

「生まれてくるものを大事にすればいい」という千代子の言葉。施設の園長(とよた真帆)の突き出た腹のクローズアップ。命を生み出す存在としての女が再三に渡って強調されています。確かに、出産は女性にしかできない行為でしょう。しかし、青山監督の意図がどこにあろうとも、女は子供を産むから太刀打ちできない、という印象を与えてしまうのは罪深いと私は思います。「だから、女は強い」なんてことは決してないのです。子供を産むのは女にしかできないからこそ、そこに苦しみが宿っていることも多々あるのですから。

さて、命の連鎖の呪縛のようなものから解放されている女性は、宮崎あおい演ずる梢です。そういう位置づけとして、彼女は間宮運送に配置されているのかも知れない。彼女は間宮運送に骨は埋めないでしょう。梢には、あらゆる束縛から解放された自由な存在として、旅立って欲しい。地獄に堕ちた健次を哀れに思いながら、私の希望は梢に向けられて仕方ないエンディングなのでした。