Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

2007-03-26 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/黒沢清
<梅田シネ・リーブルにて鑑賞>

「絶望と孤独を喰らう赤い服の女」



(ラストシーンについて触れています)
まず、黒沢清監督の作品について、好きか嫌いかと聞かれると嫌いである。で、すごいかすごくないか、と聞かれると、すごいと答える。だから、しょうがなく見る(笑)。こういうのを、いやよいやよも好きのうち、と言うのだろうか…。

さて、最新作「叫(さけび)」について。これまでの黒沢作品というのはおおむね「目に見えない存在がもたらす恐怖」について描いたものが多かった。しかし、新作では「幽霊」がちゃんとした人の成りをして登場してきたのが非常に新鮮であった。ただ、これまたややこしいのは、一応「赤い服を着た幽霊」は映像として登場しているけど、これは何かの象徴であるかも知れないし、実ははなから存在していないなんて解釈も可能なのが、黒沢清。私は基本的にパンフレットを買わない主義なので、その辺は勝手に想像するしかない。

で、まさにこの「勝手に想像する」ことが黒沢作品の一番大きな醍醐味なんである。以前、「SAW」のレビューでも触れたけど、映画を見終わってあれこれ検証するのが私は好きではない。「答を求めて検証する作業」と「勝手に意味を想像する作業」には雲泥の違いがある。何せ後者の方は自分の出した答が正解なんだもの。

赤い服の女(葉月里緒菜)は、耐え難い孤独を抱えた人間の前に現れる。彼女は彼らに「全部なしにすること」を示唆する。おそらく赤い服の女は、さまざまなの人々の前にも現れているのだろう。役所演じる吉岡のカウンセリングを行う精神科医(オダギリジョー)も、幽霊の話になった途端、動揺し机の上のものをぶちまけたりしている。彼もすでに赤い服の女を見ているのかも知れない。

赤い服の女は、律儀にドアを開けて出て行く時もあれば、スパイダーマンのような飛行で空高く飛んでいくこともあって、この行動の一貫性のなさはどう考えればいいのか、非常に悩むところ(笑)。私は、ドアを開けて出て行くような描写の時は、実は死んだ恋人の春江(小西真奈美)が赤い服の女として目の前に現れているんではないかな、なんて想像してみたりもした。ラストシーンは、春江の叫びである。ただし、音は消されている。その叫び声は、劇中赤い服の女が発していたものではないかと思うのだ。そもそも、最初の死体も赤い服を来ていたし。

しかし、あの叫び声はすごかったですね。声でR指定出されてもおかしくないんじゃないでしょうか。落ち込んでる人が聞いたら狂ってしまいそうです。

埋め立てられる湾岸地帯が土壌となり、人間の孤独を糧に赤い服の女は増殖し続ける。ただひとり「許してもらった」吉岡は、誰もいなくなった湾岸地帯をひとり彷徨い続けるのだろうか。この「許される」ということをどう解釈するのか、というのも面白いところだろう。

あなたもふと、鏡をのぞくと、赤い服の女が見えるかも知れない。なぜだか知らないけど海水を汲みたくなるかも知れない。そう思ってしまう人は、十分に鬱状態。黒沢作品は、カウンセリングに行くより簡単なリトマス試験紙だ。


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