【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

「木津川の泉津を訪ねる」編:せいか小さな旅 2015.10.22(木)

2015-10-31 | せいか小さな旅

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

ふるさと案内人と行く『せいか小さな旅』は『22日の9時』集合です!!「どこ行かはるのですか?」「ハイ、ちょっとそこまで・・・」
近鉄山田川駅前9時集合 山田川に沿って山田川下流から河口へ、泉津、吐師の浜と乗越し堤から菅井の浜への旅

山田川河川改修事業:昭和63年3月完成の記念碑のそばでお話伺いました。




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木津川は昔、泉川と呼ばれていました。津とは、ふなつき場(港)つまり木津川のふなつき場(港)を訪ねての小さな旅です。
「吐師の浜はここらへんやったんちゃうかなぁ?」っという場所(上流に泉大橋が見えてました)で精華町シルバー人材センターのふるさと案内人さんのお話を伺いました。





日本で最初の都が築かれたのは大和の藤原京、その都を築くときの資材を運ぶのには陸路よりも水路が便利だったようです。大阪・京都方面からだと淀川、宇治川から木津川に遡り吐師の浜から陸路、歌姫街道⇒今で言うところの平城宮跡:大極殿・朱雀大路、藤原京へと・・・
江戸時代には十石船が行き来したそうで、吐師の浜から陸路を西へ郡山街道へと発達したそうです。

道標がありました。

右 京大坂
左 かう里山(郡山)

郡山城の柳沢家と深い関わりがあって参勤交代の折なんかには吐師の浜はえらい栄えたそうです。そんなお話伺ってから堤防へ戻り「乗越し堤」へ、ここは地元の方なら「乗越し堤イコール水害」と言われるほど台風ごとに水害があったそうです、むかしは自然信仰が深いこともあって、地形を変えて堤防を築くとかの概念がなかったようです、ちょうど馬淵地区が見える桜並木のあたりでしょうか。



菅井の浜へと堤防を下ります。

そこから河川敷へ下っていって菅井の浜へと移動、



菅井の浜も「どのへんやったんかなぁ?」っというカンジなんです。菅井は今の北の堂、馬渕、菅井っと併せて菅井村でした。菅井村を西方面に行くと南稲、植田、東畑、高山、四條畷、大阪へと通じる道が開けてました。その方面からの物資を運ぶ港が菅井の浜だったんでしょう。菅井の浜には渡し舟がなかったんで伊賀上野方面へは吐師の浜から渡し舟で向こう岸に渡り伊賀上野方面へ物資を運んだそうです。
菅井の浜が栄えたのは東畑で白土・はくど(真っ白なお人形の顔に使ったり磨き砂などに)が採取されて搬出するため大阪・京都方面へは木津川を下りましてね・・・それと、毎年11月下旬から12月中旬にかけて年貢米を納めるための搬出港としても、たいそう賑わったそうです。
当時は道路事情はあんまり宜しくありませんでしたから、水路を利用するのが一般的だったようです。
明治29年にJR奈良線が31年にはJR片町線が開通してからは物資を運ぶのには鉄道に委ねられるようになりました。それでも奈良電(現在の近鉄京都線)が開通するまでの間、菅井の浜では渡し舟が利用されて向こう岸に渡りJR奈良線を利用して京都に行ったと言われてます。
JR奈良線、JR片町線が発達すると、しぜんに吐師の浜も菅井の浜も姿を消してしまいました。

菅井の浜を後にして菅井の公民館でトイレ休憩後、祝園駅まで歩き近鉄新祝園駅東口で解散となりました。
「わんちゃん、飛行場ででもグラウンドゴルフ練習あるから、都合が付いたら参加したらいいよ」っと、馬淵球遊会のみなさんからお声がけがありました。その場所が菅井の浜っとわかり、そのうち行ってみようかな?のわんちゃんです。

確かかしのき苑の1階ホールの壁に陶板画がありました、あれは?




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歩きながら出会ったお花たち
マルバルコウソウ                     ホシアサガオ
 

サクラタデ                        イヌタデ
 

チャ                              カラスウリ実
 

カナムグラ                        アメリカミズキンバイ