『変態村』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000H4W91M&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
老人ホームやイベント会場で歌をうたって全国を巡業している青年マルク(ローラン・リュカ)。クリスマスも近い雨の夜、田舎道でクルマが故障してしまい近所のペンションに一泊することに。翌日クルマの修理中に散歩に出たマルクは村の人々の異様な行動を目撃し慌てて宿へ戻るが、今度は宿主のバルテル(ジャッキー・ベロワイエ)になぜか逐電した妻・グロリアと混同されて監禁されてしまう。
こういう映画みると「やっぱトシくったわ・・・」という気がひしひしとしますね(爆)。
いやおもしろいよ。べつに難しいということもない。すごくわかりやすいし、ストレートだ。けど楽しいか?と訊かれると「・・・・・・」となってしまう。おもしろいんだけどねえ。でもシュミじゃないです。残念なことに。20代のころならもっと楽しめた・・・かもしれない。
この映画には冒頭の老人ホームのシーン以外にはいっさい女性が登場しない。
舞台背景が老人ホームと**村しか出て来ないし、村には女性が存在しないからだ。というかこの映画にはふつうの世界にあるべきものがいろいろナイ。その象徴が母や妻や娘といった女性の存在で、彼女たちの欠落によってこの村の異常性がわかりやすく表現されることになる。
だがよくよく考えてみれば、なにもかも揃った完璧な世界なんてありえない。どこの村も、どこの街も、どこの国にも、欠けているものは必ずある。欠けているものによって、そのコミュニティはアイデンティファイされる。
さて。女のいない**村では一体なにが起きるのか?もうこれが筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと、としかいいようがないくらいおぞましい。
このおぞましさは女がいないから起きることなのか、それともおぞましいからこそ女が消えたのか、どっちなのかまではよくわからない。だが親子らしき者もいるのでかつては母や妻といった役割の人間がいたはずで、いつの時点からかいなくなったのだろうということだけは推測される。どうして彼女たちは姿を消したのだろう。あまりにそこが人里離れて寂しい場所だったからだろうか。確かに村のまわりは沼が点在する深い森が取り囲んでいて、非常に寂しいところである。一見すると自然が豊かで風光明媚にみえるのだが、そこに住むものにとっては「綺麗で気持ちのいいところ」では済まされない現実もあるのだろう。
この映画はただのホラーかもしれないけど(途中から観客はマルクの無事脱出以外の何も考えられなくなる)、ぐりには、人が狂い、コミュニティが狂うのにはさまざまなきっかけがあり、そうした狂気はどこにでも潜んでいるのではないか?という暗喩が非常に強く印象に残った。
ぐりのアタマはまだまともかな?東京は狂ってないですか。日本はおかしくないですか。
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老人ホームやイベント会場で歌をうたって全国を巡業している青年マルク(ローラン・リュカ)。クリスマスも近い雨の夜、田舎道でクルマが故障してしまい近所のペンションに一泊することに。翌日クルマの修理中に散歩に出たマルクは村の人々の異様な行動を目撃し慌てて宿へ戻るが、今度は宿主のバルテル(ジャッキー・ベロワイエ)になぜか逐電した妻・グロリアと混同されて監禁されてしまう。
こういう映画みると「やっぱトシくったわ・・・」という気がひしひしとしますね(爆)。
いやおもしろいよ。べつに難しいということもない。すごくわかりやすいし、ストレートだ。けど楽しいか?と訊かれると「・・・・・・」となってしまう。おもしろいんだけどねえ。でもシュミじゃないです。残念なことに。20代のころならもっと楽しめた・・・かもしれない。
この映画には冒頭の老人ホームのシーン以外にはいっさい女性が登場しない。
舞台背景が老人ホームと**村しか出て来ないし、村には女性が存在しないからだ。というかこの映画にはふつうの世界にあるべきものがいろいろナイ。その象徴が母や妻や娘といった女性の存在で、彼女たちの欠落によってこの村の異常性がわかりやすく表現されることになる。
だがよくよく考えてみれば、なにもかも揃った完璧な世界なんてありえない。どこの村も、どこの街も、どこの国にも、欠けているものは必ずある。欠けているものによって、そのコミュニティはアイデンティファイされる。
さて。女のいない**村では一体なにが起きるのか?もうこれが筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと、としかいいようがないくらいおぞましい。
このおぞましさは女がいないから起きることなのか、それともおぞましいからこそ女が消えたのか、どっちなのかまではよくわからない。だが親子らしき者もいるのでかつては母や妻といった役割の人間がいたはずで、いつの時点からかいなくなったのだろうということだけは推測される。どうして彼女たちは姿を消したのだろう。あまりにそこが人里離れて寂しい場所だったからだろうか。確かに村のまわりは沼が点在する深い森が取り囲んでいて、非常に寂しいところである。一見すると自然が豊かで風光明媚にみえるのだが、そこに住むものにとっては「綺麗で気持ちのいいところ」では済まされない現実もあるのだろう。
この映画はただのホラーかもしれないけど(途中から観客はマルクの無事脱出以外の何も考えられなくなる)、ぐりには、人が狂い、コミュニティが狂うのにはさまざまなきっかけがあり、そうした狂気はどこにでも潜んでいるのではないか?という暗喩が非常に強く印象に残った。
ぐりのアタマはまだまともかな?東京は狂ってないですか。日本はおかしくないですか。