『ジョヴァンニの部屋』ジェームズ・ボールドウィン著 大橋吉之輔訳
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1950年代のパリ。アメリカ人旅行者のデイヴィッドは求婚中のヘラがスペインにいっている留守に、イタリア人ウェイターのジョヴァンニと出会ったその日に恋に堕ち同棲生活を始める。だがジョヴァンニが彼に夢中になるにつれてデイヴィッドは罪悪感に苛まれ始め、ヘラの帰りを待ちわびるようになる。
パリを舞台にしたアメリカ人の恋愛小説、といえばぐりにとっては『日はまた昇る』(ヘミングウェイ)や『バビロンに帰る(旧題「雨の朝、パリに死す」「バビロン再訪」)』(フィッツジェラルド)なんだけど、これも居場所を見失ったアメリカ人の自己愛による悲劇をベースにした物語という点では似たようなジャンルの作品かもしれない。
デイヴィッドは思春期のころにジョーイという幼馴染みの美少年と肉体関係をもった経験があったが、自分自身の同性愛的性向を肯定も否定もすることができない。それどころか、自分自身以外の誰も愛せない人間であるという事実さえも直視しようとはしないし、自分が一体何者でどこへ行こうとしているのかもまるでわかっていない。
読んでいて強く共感をおぼえさせられるのは、こうした誰にでもある恐ろしいほど巨大な「迷い」に身を委ねつつも目を背けつづける彼の姿が、読み手自身の「迷い」という鏡の中の反映そのものにみえるほど、生々しくも率直に描かれている点ではないだろうか。
てゆーかぶっちゃけデイヴィッド、ダメすぎ。
ダメ加減もここにきわまれり。ありえないくらいダメ。ダメの極致。このヒトっていわゆる「魔性子」ってヤツ(笑)?もしかして?相手をその気にさせるだけさせといてなかなかヤレそーでヤレない、ヤッても絶対に本気にはなってくれない厄介なヤツ。ただダメなだけじゃないから手がつけられない。みるだけ・遊ぶだけなら楽しめるけど実際つきあうとイタイんだよな~こーゆーの。あたしも経験あるさ(爆)。
こういうダメ人間が主人公で許されるのは昨今じゃもう文学の世界だけでしょう。ビバ文学(笑)。
でもホントに彼がダメであればあっただけ、我々が日々生きている現実の世界の厳しさ、人生の不安定さ、生き方の難しさを改めて痛感しちゃいます。彼が抱えてるような欺瞞は、大なり小なり、誰もが抱えてる種類のものだから。
デイヴィッドがダメになったのは、多分に彼がアメリカ人で金髪の若い白人、つまりパリでもどこでも男にも女にもモテるという、もって生まれた魅力のせいもあったかもしれない。
気が向けば誰とでも寝られる。自分から何をしなくても、そこにいるだけで誰彼となくちやほやしてくれて、みんながお金やお酒や食事をタダで差し出し、家にもベッドにもカンタンにいれてくれる。みんなが彼に好かれようと躍起になり、彼を心から熱愛し、孤独から救済しようと精一杯の手をさしのべてくれる。
しかし彼本人はそれをごく当り前のことぐらいにしか考えず、自分の態度ひとつでどれほど周囲の人間が激しく傷つき、打ちのめされるかなど思いもよらないし、誰の愛にも報いることがいっさいできない。彼は誰に対しても─たとえ相手が血をわけた親であっても─決して誠実になれないのだ。それは根源的には、どうしようもなく男性の肉体に惹きつけられる本当の自分を抑え、隠匿することで自己を保ってきたために破綻した彼の人格による矛盾なのだろう。哀れだが同情はできない。
やがて人々は彼から去っていく。彼がジョヴァンニを棄てたように、ヘラもまた彼の元を去る。だがおそらくまたいつかの夕刻になれば、誰かしらが彼の隣に座ってやさしくほほえみかけるのだろう。
いつの日か、デイヴィッドも誰かを心から愛するような人間に変わるだろうか。それとも、一生そうした悲しい恋を繰り返し続けるのだろうか。老いさばらえて誰にも顧みられなくなり、自分でさえ自分自身を愛することができなくなるまで。
ギリシャ神話の女神の名を冠された恋人ヘラの人物描写が非常に緻密で素晴らしかったです。ええ女や。
50年代が舞台だが物語にはまったく古さを感じさせないし、これは舞台を現代に置き換えても完全にあてはまるんではないかと思う。ただ惜しむらくは訳出が60年代なので表現に古くさい、妙に気取ったところが目立つ。機会があればもう少し自然な訳文で再読したい作品ではあります。
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1950年代のパリ。アメリカ人旅行者のデイヴィッドは求婚中のヘラがスペインにいっている留守に、イタリア人ウェイターのジョヴァンニと出会ったその日に恋に堕ち同棲生活を始める。だがジョヴァンニが彼に夢中になるにつれてデイヴィッドは罪悪感に苛まれ始め、ヘラの帰りを待ちわびるようになる。
パリを舞台にしたアメリカ人の恋愛小説、といえばぐりにとっては『日はまた昇る』(ヘミングウェイ)や『バビロンに帰る(旧題「雨の朝、パリに死す」「バビロン再訪」)』(フィッツジェラルド)なんだけど、これも居場所を見失ったアメリカ人の自己愛による悲劇をベースにした物語という点では似たようなジャンルの作品かもしれない。
デイヴィッドは思春期のころにジョーイという幼馴染みの美少年と肉体関係をもった経験があったが、自分自身の同性愛的性向を肯定も否定もすることができない。それどころか、自分自身以外の誰も愛せない人間であるという事実さえも直視しようとはしないし、自分が一体何者でどこへ行こうとしているのかもまるでわかっていない。
読んでいて強く共感をおぼえさせられるのは、こうした誰にでもある恐ろしいほど巨大な「迷い」に身を委ねつつも目を背けつづける彼の姿が、読み手自身の「迷い」という鏡の中の反映そのものにみえるほど、生々しくも率直に描かれている点ではないだろうか。
てゆーかぶっちゃけデイヴィッド、ダメすぎ。
ダメ加減もここにきわまれり。ありえないくらいダメ。ダメの極致。このヒトっていわゆる「魔性子」ってヤツ(笑)?もしかして?相手をその気にさせるだけさせといてなかなかヤレそーでヤレない、ヤッても絶対に本気にはなってくれない厄介なヤツ。ただダメなだけじゃないから手がつけられない。みるだけ・遊ぶだけなら楽しめるけど実際つきあうとイタイんだよな~こーゆーの。あたしも経験あるさ(爆)。
こういうダメ人間が主人公で許されるのは昨今じゃもう文学の世界だけでしょう。ビバ文学(笑)。
でもホントに彼がダメであればあっただけ、我々が日々生きている現実の世界の厳しさ、人生の不安定さ、生き方の難しさを改めて痛感しちゃいます。彼が抱えてるような欺瞞は、大なり小なり、誰もが抱えてる種類のものだから。
デイヴィッドがダメになったのは、多分に彼がアメリカ人で金髪の若い白人、つまりパリでもどこでも男にも女にもモテるという、もって生まれた魅力のせいもあったかもしれない。
気が向けば誰とでも寝られる。自分から何をしなくても、そこにいるだけで誰彼となくちやほやしてくれて、みんながお金やお酒や食事をタダで差し出し、家にもベッドにもカンタンにいれてくれる。みんなが彼に好かれようと躍起になり、彼を心から熱愛し、孤独から救済しようと精一杯の手をさしのべてくれる。
しかし彼本人はそれをごく当り前のことぐらいにしか考えず、自分の態度ひとつでどれほど周囲の人間が激しく傷つき、打ちのめされるかなど思いもよらないし、誰の愛にも報いることがいっさいできない。彼は誰に対しても─たとえ相手が血をわけた親であっても─決して誠実になれないのだ。それは根源的には、どうしようもなく男性の肉体に惹きつけられる本当の自分を抑え、隠匿することで自己を保ってきたために破綻した彼の人格による矛盾なのだろう。哀れだが同情はできない。
やがて人々は彼から去っていく。彼がジョヴァンニを棄てたように、ヘラもまた彼の元を去る。だがおそらくまたいつかの夕刻になれば、誰かしらが彼の隣に座ってやさしくほほえみかけるのだろう。
いつの日か、デイヴィッドも誰かを心から愛するような人間に変わるだろうか。それとも、一生そうした悲しい恋を繰り返し続けるのだろうか。老いさばらえて誰にも顧みられなくなり、自分でさえ自分自身を愛することができなくなるまで。
ギリシャ神話の女神の名を冠された恋人ヘラの人物描写が非常に緻密で素晴らしかったです。ええ女や。
50年代が舞台だが物語にはまったく古さを感じさせないし、これは舞台を現代に置き換えても完全にあてはまるんではないかと思う。ただ惜しむらくは訳出が60年代なので表現に古くさい、妙に気取ったところが目立つ。機会があればもう少し自然な訳文で再読したい作品ではあります。