夫を亡くし、一人で長男・湊(黒川想矢)を育てている早織(安藤サクラ)。
5年生になって身長が伸びてきた湊が、突然自分で髪を切ったり、スニーカーを片方だけ失くしたり、学校で擦り傷を負ったりしたことから、担任の保利(永山瑛太)から体罰やいじめを受けているのではないかと、学校に確認をとろうとする。だが学校で顔をあわせた校長(田中裕子)も保利も他の教諭も、早織の追求にはまともに答えることなく、はぐらかすばかりで…。
人気脚本家・坂元裕二のオリジナルを是枝裕和が演出。第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞。
ネタバレかどうかはさておいて、これからこの映画を観ようかなと思ってる人は、このレビューは読まないほうがいいと思います。ただ、誰がどこから観ても損はない作品です。そこは保証します。何しろ坂元裕二で是枝裕和だから。間違いない。
物語はシングルマザーの早織の視点から始まる。
仕事に子育てに家事に追われる早織はみるからに忙しそうで、それでも息子のことをとても気にかけている。といって、過保護というのとも違う。息子のよき理解者でありたい、わが子に心身ともに幸せでいてほしい。優しく、素直で、同時に毅然として、気持ちのいいお母さんだと感じる。
ところが、学校側からはそうは見られてはいない。何しろ学校側からすれば保護者は「クライアント=お客様」であって、対等ではないからだ。
じゃあどう見えているのか。
ごく簡単にいえば、この映画は小学校という閉じられた社会を舞台にした「羅生門」の話だ。
児童と保護者と教師と校長という名の官僚は、子どもを安全に健康に育んでいく協力者という意味で同じ立場にいるチームメイトだ。それなのに、彼らの間のパワーバランスはどこかいびつに歪んで、真ん中にいるはずの児童の存在そのものがいつの間にか問題の外に弾き出されてしまう。それぞれに捉えている事実の様相すら完全に食い違っていく。このえもいわれず奇妙な人間関係の構造描写が、もうめちゃくちゃにリアルだった。生々しかった。
本来、人は、どんなときであっても、お互いに対等にきちんと向き合って、相手の言葉に真摯に耳を傾けあえば、どうにかこうにか幾らかは理解しあえるはずだと思う。
そんなの綺麗事だ。無理なものは無理だろう、という人もいると思う。それはそれで構わない。そういう捉え方があっても構わない。
けど、じゃあなぜ人間には耳があって、頭があって、言葉があるというのだろう。
わかりたい、わかりあいたいという意思があって、互いに尊重しあうことができるなら、両者の間の壁をいくらか崩すとか、壁越しに体温を感じるとか、そのくらい近づくための能力ぐらいは手にしていると思ってもいいんじゃないだろうか。
だが、この映画の登場人物は誰ひとり、それができていないのだ。
早織は思春期にさしかかった息子のそばに寄り添っているつもりで、彼のほんとうの心の内には触れることができないでいる。小学校5年生という微妙な年ごろだから仕方がないといえば仕方がない。
保利はクラスの揉め事をあくまで穏便に収めることが、物分かりの良い教師として児童に信頼される姿勢だと思いこみ、教え子たちの間で実際に何が起きているのかは知ろうとしないし、知る必要性すら感じてもいない。
湊はいじめられっ子の依里(柊木陽太)に特別な感情を抱きながらも、学校の中では依里と言葉を交わすことすら躊躇する。仲良くしているのがバレたら、自分もいじめられるかもしれないからだ。
そこには、本質というものがない。まったくない。きれいさっぱり、抜け落ちている。
けど、彼らはどこも何も特別ではない。
だいたいみんなこんなもんじゃないの?そうじゃない?
私も、あなたも、彼らの立場にたったとき、これ以上の何ができる?
ほら、これが普通じゃない?
みんな、本質とやらに触れるのを、無意識に怖がり過ぎてないですか?
ただ、「普通」でいたいから。
湊も依里も、自分は「普通」ではないと気づいてしまっている。
「普通」じゃない自分が、これからどうなるのか、どこに向かっているのかが、わからない。
ほんとは、「『普通』なんかじゃなくてもいいから、そのままのあなたのままで、幸せになろう。なれるよ」というたった一言があればいいだけなんだけど。
どうしてそれが、出てこないんだろうね。
それが、親とか、教師とか、そういう役回りの“業”なのだろうか。
だとしたら、あんまり悲しくないですか。
寂しくないですか。
しんどくないですか。
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