落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

さとくんといっしょに

2023年10月18日 | movie

『月』

洋子(宮沢りえ)と夫・昌平(オダギリジョー)には幼い息子がいたが先天性疾患がもとで亡くなり、その後、洋子は障害者福祉施設で働き始める。入所者に対する職員の虐待や、同僚の“さとくん”(磯村勇斗)の差別的な言葉に動揺した彼女は所長(モロ師岡)に報告するものの、大したことではないと一蹴され…。
2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件(通称「津久井やまゆり園殺傷事件」)をモチーフに、事件が起こるまでを描いた辺見庸の同名小説を映画化。

小学校1〜2年生のとき、クラスメイトに自閉症の男の子がいた。
ひらのくんといって、ひょろっと痩せて背が高くて手脚が長くて人形劇のマリオネットのような風貌で、愛嬌のある子だった。見た目にも明らかに「障害がある」と誰でもわかるようなひらのくんだったが、とくにいじめられることもなければ、取り立てて誰かに構われたり庇護されたりすることなく、自然にクラスに馴染んでいた。並外れて記憶力がよく、算数がとても得意だったのを覚えている。算数の授業では早口でぺらぺらと喋りながら問題を解いていた。

その小学校は全校生徒がおよそ3,000人にもなるマンモス校で、私は3年生に上がる段階で分離された新設校に移ったので、ひらのくんがその後どうなったのかは知らない。新設校でも障害児は普通学級で学んでいたように記憶している。
いまの公立の小中学校ではどうなっているのだろうか。

個人的には、たとえ障害があっても、誰かの助けが必要な子でも、可能な範囲で、普通学級でいっしょに学ぶのがベターだと私は思っている。
自分と他人は違うこと、違っていてもいいこと、必要なときは互いに助けあうことは社会性動物である人間にどうしても必要な能力だ。小中学校はそれを養う上で絶好の機会でしかない。

こういうことをいうと「障害児は教材じゃない」といった反発があることは知っている。
でも、障害児を普通学級から排除することは「社会は健常者専用なのだから障害者を排除してもいい」という偏った価値観の端緒にもなってしまっていると私は思っている。その価値観が、異物をうけいれようとしない内向きで攻撃的な社会の根源のひとつなのではないだろうか。

この作品は神奈川県の施設「津久井やまゆり園」で起きた凄惨な事件をモデルにしているが、ストーリーそのものはフィクションだ。加害者のニックネームや言動は実際の加害者である植松聖死刑囚から引用されているものの、映画の中の“さとくん”は植松死刑囚の物真似をしているわけではない。
この物語の軸はもっと根源的な疑問だ。

“人”って何?
“生きる”ってどういうこと?
“普通”ってどういうこと?
“命”はどうしてたいせつにしなきゃいけないの?

もちろん、そんなこと知ってるよ、わかってるよ、という人もいるだろう。
私自身も、ある程度はわかっているつもりではいる。
だけどそこをあえて、「あなたはわかってますか」「もう一度よく考えてください」と問うているのだ。

植松死刑囚は意思疎通が困難な重度の障害者を“心失者”と呼び、社会に必要ないと決めつけ、彼らを抹殺することで社会が良くなると信じていた。
確かに極端な考え方だが、では私は、あなたは、何をもってして誰を“人”と認め、社会には何が必要で、社会を良くするためにはどうすればいいか、理解しているだろうか。
「さとくん」がどうしてそんな考えに至ってしまったのか、なぜ誰も彼を止められなかったのか。19人もの犠牲者の命に報いるためには、ひとりでも多くの人間が、改めて心から誠実にその疑問に向きあい続けるしかないと思う。
そのために、この映画はつくられたのだと思う。
主人公の洋子は無力な新人職員ではあるけれど、観客を、人として忘れてはならない葛藤の入り口に導くための重要な役割を果たしている。

『舟を編む』の石井裕也監督作品にしては全体につくりが古くてクサイ雰囲気に面食らってしまった(テロップの書体やデザインがダサい・施設のセットがあまりにボロ過ぎるし汚過ぎる・全編照明が限度をこして暗過ぎる)が、いつの間にか展開が加速していくのにつれて物語に引きこまれていて、終わってみればちょっとした見苦しさも演出なのかなという気もする。
気がするだけかもしれないけど。

登場人物が全員、弱かったり卑怯だったり無神経だったり、人間がいかに不完全な生きものかということを嫌というほど力一杯再現していて、彼らの言動ひとつひとつがすべて残らず、物語の大事な要素になっている。
感動作ではないけど、「衝撃の問題作」などという軽薄なキャッチフレーズではくくれない、大事な映画だと思います。

劇中、昌平の発言にさとくんがハッとした表情を見せる瞬間がある。彼はここで、自分の考え方が間違っていることに気づいている。
結果的にさとくんはその気づきを自ら見過ごしてしまうのだが、この短いやりとりには「所詮、当事者に面と向かって発言できないような意見は、そもそも正しいことではない」というごくありふれた倫理観がこめられているのではないだろうか。
ほんとに、当たり前のことなんだけど。

関連レビュー:
『彼女の名はサビーヌ』
『ブラインドサイト〜小さな登山者たち〜』
『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』
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