レオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は兄弟同然に育った幼馴染みの大親友。
中学に上がっても同じクラスになったふたりは、親密なあまり周囲に「付き合ってるの?」「オトコオンナ」などとからかわれ、それを意識したレオはレミと距離を置くようになる。
第75回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。
子ども時代にこんな友だちがいたらよかったのにな、と憧れたことがある。
レオとレミは夏休みも食事も眠るときもいつもいっしょ、互いに助けあい、支えあってきた。
明るい日射しの降り注ぐ自然の中を子犬が戯れあうように駆けまわり、演奏会本番の前夜、緊張で眠れないレミのために、レオは即席のおとぎ話を聞かせて寝かしつける。
これぞ幸せ、平和そのものの情景に感じる。
でもそんな幸せは永遠には続かなかった。
どうして、ふたりは離れ離れになってしまったのだろう。
ふたりをからかったクラスメイトたちに悪意はなかったのだろう。ただの好奇心、ただの悪戯心。
だけどそれがレオの心を傷つけてしまう。
なぜレオは傷ついたのだろう。
なぜ彼は、あんなに仲良しだったレミを避けるようになってしまうのだろう。
大して興味がありもしないアイスホッケーを始め、他のクラスメイトたちと遊び、家業の農作業を手伝うレオの表情に大きな変化はないように見える。
それでいてどこか寂しげにも見える。
レミはどこ?どうしてレミと遊ばないの?レミといる方が楽しいはずでしょ?
つい、彼に話しかけたくなってしまう。その言葉が、レオの頭の中を飛び回っているような気がする。
子どもの友だちが成長とともに変わっていくのはありふれた成り行きだと思う。
レオとレミも、こんな明確なきっかけがなくてもいつかは離れていく関係だったのかもしれない。だが、だとすれば、レミが選んだ結末は説明がつかない。レオはどうあれ、レミは切実にレオを必要としていた。ほんとうはレオにもレミが必要だったはずだ。
その真理を、レオは拒否してしまった。
セリフが必要最低限しかなく淡々とした映画なので、レオの行動の理由に説明はない。
だからこそ、観客側は自分の心に「なぜ」と問い続けることになる。
レミとの関係を「カップルのようだ」と揶揄されたレオが傷ついたのはどうしてなのか。
レオの心理に、クラスメイトたちの間にホモフォビア(同性愛嫌悪)があったのではないか。
だとしたら、それはいつ、どんな形で無垢な彼らの心に入りこんだのだろう。
レオがアイスホッケーを始め、ことさら男の子らしく振る舞おうと装うのは、自分がゲイのように見えるのではないかという恐怖心があったからではないのか。
その恐怖心はどこからくるのだろう。
誰がどうしたら、レミをまもれただろう。
映像が眩いほどに美しい。
レオの家族は花を育てているのだが、季節ごとに変わる広大な花畑の景色はまさに天国そのもの、一面に咲き乱れる花の間を跳ねまわる13歳の子どもたちはまるで天使のようだ。ふたりが自転車で通学する田園風景は印象派が描く絵画そっくりです。
カメラは基本的にエデン・ダンブリン演じるレオのクローズアップか、もしくは彼らの視線の高さにあわせたローアングルで、物語は一貫してレオの主観で描かれる。だから観客は常に「あなたならどうする?」「それでいいの?」と己の心と会話しながら映画を観ることになる。
公開されてしばらく経ってしまったけど、ひとりでも多くの人に観てほしいと強く思いました。
あなたなら、どうする?
それでいいの?
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