落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

窓のむこう

2018年05月01日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審判決の傍聴に行ってきた。
といっても7倍を超える抽選に外れて、裁判そのものは傍聴できなかったんだけど。仙台くんだりまでいって。ええ。

判決は一審に続いて原告勝訴。被告である宮城県と石巻市に対し、総額14億3617万4293円の賠償金の支払いを命ずるものだった。
実をいうと、これまで控訴審を傍聴してきて(前回の結審=原告意見陳述は大雪で行けなかったんだけど)あまりなワンサイドゲームぶりに却って不安を感じていた。なにしろ被告側はほぼノーガードといってもいい状態で、証人尋問では原告側代理人だけでなく陪席裁判官のこれでもかといわんばかりに鋭い追及に無抵抗にただただなすがまま、議論らしい議論もろくにできない状況が続いていたからだ(傍聴記録控訴審第7回口頭弁論控訴審第6回口頭弁論)。
専門家ではないのでちょっと自信はないけど、証人が裁判官にまでこれほど厳しく詰問されるのは稀なことではないだろうか。遺族すら見落としていた観点を丁寧に指摘する質問が裁判官からあったことに驚いた方もおられたという。

今回の判決文は300数十ページにも及ぶという。入手できていないので要旨(21ページ)と骨子(7ページ)しか読めていないが、記者レクでの説明によれば、賠償金の総額にこそさほどの差はないものの、全文の量は一審の70数ページの4倍以上、また内容もかなり踏みこんだ画期的なものになったという。
まず一審では、地震発生時に校内にいた教職員が津波の到達を予測してじゅうぶんな時間的余裕をもって避難行動をとることが可能だったかどうか(予見可能性)が争われ、少なくとも3時30分つまり津波到達7分前には予測・避難開始が可能だったことが認められたが、控訴審ではこの点については議論せず、震災前の平時の防災体制が適切であったかどうかが争点となった。
そこで議論の中心になったのが震災前の2009年に施行された学校保健安全法である。この法のもとで控訴審を争うことが第一回口頭弁論で裁判長から提示され、実際にこの法のもとで判決が言い渡された。施行されて間もない法律ということもあるが、代理人の斎藤弁護士によればこの法律で司法判断が下されたのは今回初めてではないかということだった。東日本大震災では他にも津波訴訟と呼ばれる裁判が行われているが、これまでわかっている範囲で、事前の防災体制の責任が問われた判決がでたこともないらしい。
すなわちこの判決によって、被災地のみならず日本全国の教育現場での危機管理体制の見直しが迫られるだけでなく、現在係争中の津波訴訟、これから提起される可能性のある災害関連の訴訟にも大きく影響が及ぶ可能性があるのだ。

具体的には、学校保健安全法で策定・運用が義務づけられ、震災前年の2010年4月30日に提出期限が設けられていた危機管理マニュアルに津波発生時の二次避難場所(判決文では“三次避難場所”)と安全な避難経路が記載されていなかったことが校長・教頭・教務主任・教育委員会の落ち度であり、少なくとも防災行政無線が津波発生を放送した14時52分時点には、かつて子どもたちが植樹をした「バットの森」(校庭から700メートル・標高20メートル)への避難行動を開始すべきだったと、判決では指摘している。裁判所は去年10月の現地調査でこの高台を訪問していた。
一見すると原告側の主張がほぼそのまま反映された判決になったようにも思えて、個人的にいささか拍子抜けした感は否めない。案の定、被告側は上告を検討しているらしい。上告されれば最高裁ではほとんど公開での裁判は行われない。となれば訴訟そのものでは世論を動かしようがない。そこで結果的にせっかくのこの判決がひっくり返されたらたまったものではない。

印象に残ったのは、判決後の記者会見で代理人の吉岡弁護士が判決の中の慰謝料の認定理由について読み上げたときのことだった。

『被害児童は死亡当時いずれも8歳から12歳の小学生であり、一審原告を含め祖父母両親の愛情を一身にうけて順調に成長し、将来についても限りない可能性を有していたにも関わらず、本件津波によって突然命を絶たれてしまったものである。また、被災児童は本件地震発生直後は大川小学校教職員の指導に従って無事に校庭に二次避難し、その後も校庭で二次避難を継続しながら、教職員の次の指示をおとなしく待っていたものであり、その挙句、三次避難の開始が遅れて本件津波にのまれて息をひきとったものであり、死に至るのはたいへん悼ましいものであり、被災児童の無念の心情と恐怖と苦痛は筆舌に尽くしがたいものと認められる』
『一審原告にとって被災児童はかけがえのない存在であって、日々の生活は被災児童を中心に営まれていたといっても過言ではない。一審原告は被災児童に愛情を注ぎ、その成長に目を細め、その将来に期待を抱いていた。そのような被災児童を本件津波によって突然奪われてしまった一審原告らの苦痛や無念さは計り知れず、本件津波から7年以上の月日を経ようとも、なお一審原告らはつらく苦しい日々を過ごすことを余儀なくされている。また、本件津波後、一審原告らは大川小の周辺がぬかるんだ土砂と瓦礫に埋めつくされたなか、自らスコップ等を手に必死にわが子の姿を捜しもとめ、変わり果てた姿と対面し、遺体を清拭することもかなわずに葬らざるを得なかった。また被災児童の鈴木巴那、永沼琴は未だ発見されていない。その保護者である鈴木義明・実穂、永沼勝は現在もなお見つからないわが子の姿を追い求め、捜索活動を続けており、わが子の遺体が発見された遺族にまさる辛苦を味わっていることが認められる』(音読から聞き取り)

読み上げながら、吉岡弁護士は涙を流されていた。
訴訟前から7年にわたって遺族とともにたたかってきた彼にとって、断じて許されざる不条理の高い高い壁のへりに、やっと指先が届いた、その感触を初めて得た瞬間だったのではないだろうか。
ちなみに吉岡・斎藤両弁護士は、この裁判では原告から弁護費用をうけとっていないと聞いている。

亡くなった子どもたちと遺族の心情をじゅうぶんにくみとった画期的な判決でもあると同時に、原告がもとめた事後対応での行政の不法行為については二審でも争われなかった。
通常こうした訴訟で事後対応が争われることはあまりないともいわれるが、この大川小学校の事例で起きたいわゆる“事後的不法行為”はいままさに政府を大きく揺るがしている最中の公文書の隠蔽・改竄とまったく同じ次元のできごとである。なにしろ親たちが風雪に凍え泥にまみれながら血眼で子どもたちを捜しまわっていたあいだ、生き残った教職員─校長・教務主任・校務員─も石巻市教育委員会も捜索活動にいっさい協力しなかっただけではない。生存教諭の手紙を隠蔽・改竄し、生存児童や保護者たちが重い口を開いて協力した聞き取り調査のメモを廃棄し証言の内容すら勝手に“修正”し、都合の悪い証言は「信憑性がない」として切り捨てた。訴訟にいたるまでの行政との軋轢に深く傷つき心折れた遺族も大勢いる。これが罪でなくてなんだろうか。
ひたすら責任逃れに汲々としていた彼らにも、立派ないいぶんはあるだろう。もちろん。
だがどんな言い訳がいえたにせよ、彼らがしたことは、はっきりと犯罪なのだ。それは決して見過ごしにされていいものではない。

あの日、あのとき、いったい何が起きたのか、真実を知る人が、少なくともひとりいる。
生存児童4人も震災直後は行政の聞き取り調査に応じてはいるし、そのうち今年大学生になった只野哲也くんは自らメディアの取材にも対応し、語り部活動にも参加している。しかしなんといっても彼らは子どもなのだ。どれほど怜悧であっても起きていた事実を客観的に把握するには限界がある。
遺族の多くが、津波が来たときなぜかすでに裏山の上にいたといわれている教務主任の証言を望んでいる。2011年4月9日の第一回説明会を最後に公の場から姿を消した彼は“公務災害”の認定を受けて休職中のまま、この春の大川小学校の閉校に伴って同じ石巻市内の小学校に転勤になった。

子どもたちを助けられなかった罪の重さがどれほど彼を苦しめているか、想像することはできない。
ゆるすゆるさないの問題ではない。でもせめて、できることをしてほしい。できることがあるはずだと思ってしまう。
どうすればそれがかなうのか、それを阻むものはもしかしたら、彼の背負っている罪よりもはるかに巨大なのかもしれない。


関連記事:
小さな命の意味を考える会 座談会
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 リチャード・ロイド・パリー著
大川小学校児童津波被害国賠訴訟 控訴審第7回 証人尋問
大川小学校児童津波被害国賠訴訟 控訴審第6回 証人尋問
小さな命の意味を考える会 第3回勉強会「何が起きたのか」
第2回 小さな命の意味を考える勉強会
第1回 小さな命の意味を考える勉強会
「小さな命の意味を考える会」座談会
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


大川小学校校舎2階から北上川を臨む。
2011年3月11日3時37分のほんの一瞬まえ、この窓から津波が襲来するのを見た生存者がいる。
そのひとが口を開くのを、多くの人がまっている。

復興支援レポート



最新の画像もっと見る

コメントを投稿