落穂日記

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羅生門のバケツリレー

2017年11月14日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審第7回公判の証人尋問の傍聴に行ってきた。

今日のひとりめの証人は震災当時、石巻市教育委員会の教育総務課課長補佐だった飯塚千文氏。前回の証人・当時学校教育課長だった山田元郎氏と同じく、教育行政側の防災担当だった人物である。
まず被告側代理人から、石巻市や宮城県の各種資料数点と実施された学校防災関連の研修や会議の実績が提示され(二審になってから被告側から提出された50を超える新証拠資料の一部ではないかと思われる)、平成21年の学校保健安全法の施行やおよそ37年周期で発生している宮城県沖地震の予測を受けて、市教委側が当時いかに積極的に学校防災にとりくんでいたかが懇切丁寧に説明された。

だが原告側からの反対尋問で、それがどれだけ穴だらけの防災対策だったかが前回同様に追求されていく。
飯塚氏は平成20~22年の3年間、石巻市本庁から教育委員会に異動し教育総務課課長補佐として勤務したが、それ以前の職歴は建設部や産業課など、教育とも防災とも直接関わりのない分野であり、とくに学校安全に明るい人材ではなかった。それがいきなり大きな川と海に面した広い石巻市の公立小中学校64校の防災を担当するわけで、着任後まもなく新たに施行された学校保健安全法で「学校安全の責任は設置者=市にある」とされたところで、やはり無理があるように思われる。

現にこの法律では、学校の危機管理マニュアルは法律に適合するよう策定し、毎年見直すよう定められているというのだが、飯塚氏自身にはそうした認識はなかったと証言している。飯塚氏本人が見直しをしたり、学校側に見直したかどうかを確認したことはなく、学校保健安全法の施行前と後でもそのルーティンに変更はなかったともいう。
すなわち前回証言した山田氏同様、学校の防災対策は各校に完全におまかせ状態で、その機能性や実効性など内容については100%ノータッチだったという点でほぼ同じ証言をしたといえる。

異なるのは、各校が策定した危機管理マニュアルにばらつきがあったために、飯塚氏が作成した災害対応マニュアルを学校安全対策研修会で参考例として提示していたことだった。
教育にも防災にも特に知見のなかった飯塚氏は、同僚から提供されたりネットで調べたりした資料をもとに参考例を作成したというが、そこで参照したのが山梨県の災害対応マニュアルだったという。理由はわかりやすかったから。
山梨県に、海はない。
だから飯塚氏が提示した参考例に、津波の項目はない。
彼の参考例をうけて各校が策定した危機管理マニュアルに津波が記載されているとすれば、それはすべて各校の独自の努力義務で追加されたものとなる。

飯塚氏の証言によれば、策定にあたって石巻市のハザードマップを参照するよう要請はしていないという。
学校そのものが津波の浸水域にはいっていようがいなかろうが、通学域がはいっていようがいなかろうが、そこは市教委の責任の範囲ではないという認識だったことになる。
いうまでもないが、学校を設置するのは教育委員会、通学域を決めるのも教育委員会である。
その一方で、学校とそこに通う子どもたちの安全をまもる責任はすべて、学校に丸投げ同然だった。もし、山田氏や飯塚氏の証言がすべて事実であるとするならば。ちょっと信じられないことですけれども。

原告側の反対尋問のあと、前回も山田元学校教育課長を厳しく尋問した裁判官からいくつか質問があったが、傍聴席がどよめいたのは、災害時に避難所に指定された学校の安全を確認するのは市建設部の役割であることが明らかにされたやりとりだった。飯塚氏の前任部署である。
つまり、飯塚氏は64校もある石巻市立の小中学校が災害時に安全な場所かどうかを、職務上知りうる立場にいたということになり、それまでの法廷での証言の真偽に疑問符がつく。
実際の尋問ではその点を詳しく追求することはなかったが、この短い会話で、それまで証人がどれほど繊細に言葉を選んでいても、その信頼性がまるごと台無しになったように感じた瞬間だった。

次の証人は柏葉照幸氏。大川小学校の震災当時の校長である。
念のため書き添えておくと、彼は震災当日、年休で学校を不在にしていた。

今回の証人尋問は一審に続いて二度目ということだったが、ここで被告側代理人となんとも奇妙なやりとりが繰り広げられた。
曰く、震災があった年の2月、6月に予定されていた河北地区の避難訓練の打合せのため、河北総合支所職員(市職員)3名が大川小学校を訪問した。この際の会話では危機管理マニュアルについての言及はなかった。避難場所は校庭でよいとの認識が示され、校長が二次避難先について尋ねたところ職員は想定していないと答えた。校長の「津波は堤防を越えないのか」という質問にも、職員は「計算上こえない」と回答したという(ちなみにこのとき訪問したのがいったい誰なのかという個人名および議事録は提示されていない)。
またこのあとの3月9日(震災2日前)に地震があったが、危機管理マニュアルの内容について担当職員(教頭・教務主任)と話しあうこともなかったとしている。
前年の一学期には市教委の指導主事の学習指導訪問があったが、このときも危機管理マニュアルについて指示も言及もなく、学校安全についての指摘は文書でのみ行われたという。
つまり柏葉校長は当時、大川小学校に津波が来ることを想定していなかったし、学校職員を含め周囲もそういう共通認識でいたということを印象づけたかったらしい。

ところが反対尋問ではこれらすべてがことごとく覆されていく。
山田氏や大沼指導主事との会議で、平成22年度の大川小学校の危機管理マニュアルについて柏葉校長は「津波襲来時には校舎2階に避難」と回答したという記録がある。震災直後のメディアの取材にも、2階か裏山に避難することになっていたと話したことが記事に残っている。震災の年の1月23日の石巻市学校安全対策連絡会では平松危機管理官から「前年のチリ津波の際の避難者が少なかった(=もし津波が大きかった場合の被害が甚大になるから対策が必要)」という総括があったことが、出席した石坂教頭(故人)からあったはずだが、柏葉校長は「避難者用のストーブや座布団が足りないという話はした」というものの、職員会議では議題にならなかったと証言している。
3月9日の震度5弱の地震の後、避難先とする裏山にPTAの助けを得て階段を設置しようという職員室での会話について市教委やPTAに具体的に連絡・相談したか質問され、最終的には「そこまで詳しく話したわけではない」と回答、そうした会話があった事実は認めた。
大川小学校に5メートルをこえる津波がくるともたないという認識はあったこともメディアの取材で判明している。理由は学校の前の堤防が5メートルだったから。
これら原告側代理人の指摘に対し、柏葉元校長はすべて「記憶にない」「覚えていない」「(教職員と議論)しなかった」「聞いていない」「認識していなかった」とのみ答え、それ以上の追求には口をつぐむばかりだった。

彼が誰かの責任について認めたのはたった一点、災害時の保護者への児童引渡しについての質問のときだった。
前任の教頭(学校安全の学校側の担当者)が作成した防災用児童カードが校内の金庫に存在していた(個人情報を記載するため)が、柏葉校長着任以降、記入・回収が行われていなかったことに関して、ただひとこと「私の落ち度です」と発言したのだが、理由についてはとにかく沈黙(「認識していなかった」)。
地震発生時の児童引渡しについては、震度6弱以上の場合は引渡しと着任以前から決まっていたという。しかし震災直後の聞き取りでは「津波警報の発令中は引き渡さないことになっていた」という証言が残されている。矛盾している。
大川小学校の通学域には津波発生時の浸水域が含まれている。校区内でももっとも海沿いの尾崎と長面である。この方面にはスクールバスも運行している。災害時にスクールバスがどう運行するかは決まっていなかった。着任したその年に尾崎・長面周辺には環境確認で訪問していた記録はあるから、状況は把握していたと考えるのが自然である。何度その点を追及されても、校長は「津波の来る方にはいかず学校にもどることになっていた」とのみ繰り返した。

先述通り、震災前日前々日には地震が何度もあった。9日には校庭に避難した後、教室で待機し、いつも通り下校させている。
そのときは津波注意報が解除されたかどうかの確認はしていない。
そして11日の休暇届を、彼は10日に出している。不在中に地震があった場合の引継ぎはしなかった。
尋問では、当時それほど地震が繰り返されたことを「覚えていない」と回答した。

個人的な見解になってしまうのだが、柏葉校長の証言は他の証人と比較しても突出して信頼性が低く感じる。山田氏にしても飯塚氏にしても、信頼性があってもなくてもなぜそういう証言をするのかという意図が読みとれる。それが柏葉校長にはない。だから聞いていてものすごく疲れた。彼がいったい何をまもろうとしているのかが、わからないのだ。あるいは彼自身、わかっていないのかもしれない。わからないままに下手な嘘を漫然と繰り返す意味はいったいなんなのだろう。単に決められた時間を証言台でやりすごせば、それで責任は果たしたことになるとでも考えているのだろうか。
それをより強く印象づけられたのは、やはり裁判官からの質問で、大川小学校は津波の浸水域ではないが、洪水の浸水域であることを指摘されたときだった。
津波は地震によって起こる。ということは地震で堤防が損壊してしまった場合、そこに津波が来たら学校が浸水する危険性があることは火を見るよりも明らかである。
大川小学校がそもそも現実に直面していたそのリスクを突きつけられても、柏葉校長はただ弱々しく、「考えたことがなかった」とつぶやくだけだった。

前回も感じたことだが、子どもの命を預かる学校の安全をまもる責任を、学校も行政も真剣には考えていなかったとしか思えない。
その事実を、お互いにかくし誤魔化し、うやむやにすることだけに汲々としている。

子どもの命をまもるための学校安全の責任を、バケツリレーよろしく押しつけあっていた、学校と行政。
74人もの子どもたちと、10人の先生たち、スクールバスの運転手さん、学校が避難しないから大丈夫と避難を見送った近隣の人たち、子どもがバスで帰宅してからいっしょに避難しようと自宅で帰りを待っていた家族、そうした多くの人びとの命が失われたその責任を、嘘に嘘を塗り重ねながら闇に葬ろうとしている、学校と行政。

こんなに情けなく、恐ろしい話があるだろうか。
むちゃくちゃ怖いと思うんだけど。


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講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
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仙台にて。

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