『火垂るの墓』
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昭和20年の神戸。海軍大佐の長男で中学生の清太(石田法嗣)は、空襲で母(夏川結衣)を亡くし4歳の妹・節子(佐々木麻緒)とともに母のいとこ・久子(松嶋菜々子)の西宮の家に身を寄せる。出征中の父(沢村一樹)との連絡が取れるまでのつもりだったがいっこうに返事はないまま、みるみるうちに食糧事情は悪化。久子の夫・源造(伊原剛志)の戦死公報が届いたのを境に、久子の清太兄妹への態度は一変する。
野坂昭如の小説、高畑勲のアニメーション映画でも知られる作品のテレビドラマ化。2005年放送。
誤解を恐れずにいえば、個人的にアニメ映画『火垂るの墓』はさほど好きではない。
傑作だとは思うし、今年で公開からまる30年経っても日本中知らない人はいないくらい、海外でも多くの人に観られている、一種のマスターピースであることは否めない。子ども向け映像作品で最後に主人公が命を落とすという残酷でありつつ斬新なストーリーで、アニメ映画が子ども向けに限らず老若男女の鑑賞に値する芸術であることを証明することもできた。
そこはそれとして、ただただ哀れな清太や節子のアニメーションらしい愛らしさが、ちょっと胸に痛すぎたのだ。また登場人物の内面描写が子どもたちだけに限られているのも、観ていて居心地の悪さを感じた。
このドラマでは、主人公を清太兄妹と久子一家の両者にわけ、双方を同じウェイトで描いている。
物語は現代になって95歳で大往生した久子の火葬のシーンから始まる。娘のなつ(岸惠子)は母親の遺骨を拾って、「お母さんの戦争がやっと終わった」とつぶやく。彼女たち親子にとって、戦争は1945年8月15日に終わったのではなかった。一家の大黒柱を失い、4人の子どもを抱えて戦後の混乱期を生き抜かねばならなかった彼女たちにとって、毎日を生きてやり過ごすことそのものが戦争だった。人間らしい心など省みる余裕などなかった。
それで彼女たちが傷つかなかったわけはない。戦争で傷つくのは、なにも憐れに命を落とす人々だけではない。生きている者も皆が深い傷を負い、心に血を流しながら生きていかなくてはならないのだ。
久子の清太兄妹に対する仕打ちは確かに大人気なく、観ていてかなりつらかった。だが自ら彼女の立場に立ったとき、果たして彼女のとった行動以外の何ができたか、私にはわからない。わが子には己の食べるものを分けてでも食べさせたい。だが他人に食べさせるものがあればそれを奪ってでもわが子に食べさせねばと考えるのもまた母親のしたたかさであり、それを否定することは、まして非常時にできるものではない。
そんな風に、人を人でなくさせるのが戦争のもっとも残酷な部分なのだろう。それはどこかの誰かがラジオの向こうから「残念だけど戦争には負けた。これでおしまい。たいへんだけどまたみんなでがんばろう」などといってチャラになったりはしない。そうして傷ついたものは、二度と元には戻らないのだ。
久子は「これ以上変わっていく義姉さんをみていたくない」と家を出ていく義弟・善衛(要潤)に向かって、傲然と「これが戦争よ」といい放つ。
どんな正義も大義名分も優しさも絆も温かさも世間体も、恐怖をおぼえるほどの空腹の前になんの意味ももたない。そこに人間性などかけらも必要ない。彼女にとっては、家族を死なせない、1日でも長く家族を生かしておくことだけが重要で、他のなにもかもがどうでもいい。戦争が終わり、清太も節子も亡くなった後、彼女が一言も戦争の話をしなかったのは、思い出したくないのではなく、忘れたくても忘れられるものでもなく、それ以上に、いま目の前にいる家族を支えていくだけで感傷に浸る心の余裕をもたなかったからではないだろうか。
そうした久子の冷徹さの中に、戦争の真の恐ろしさを表現した作品として、納得の完成度だったと思います。
「軍人は国をまもってなんかいない。嫌がる人を戦場に駆り出して虫けらみたいに殺すだけ」というセリフもあった。
いまの日本の映像作品で、もしかするとこういうセリフはなかなかいえないかもしれない。たった10年かそこらでいったい何があったのやら。
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昭和20年の神戸。海軍大佐の長男で中学生の清太(石田法嗣)は、空襲で母(夏川結衣)を亡くし4歳の妹・節子(佐々木麻緒)とともに母のいとこ・久子(松嶋菜々子)の西宮の家に身を寄せる。出征中の父(沢村一樹)との連絡が取れるまでのつもりだったがいっこうに返事はないまま、みるみるうちに食糧事情は悪化。久子の夫・源造(伊原剛志)の戦死公報が届いたのを境に、久子の清太兄妹への態度は一変する。
野坂昭如の小説、高畑勲のアニメーション映画でも知られる作品のテレビドラマ化。2005年放送。
誤解を恐れずにいえば、個人的にアニメ映画『火垂るの墓』はさほど好きではない。
傑作だとは思うし、今年で公開からまる30年経っても日本中知らない人はいないくらい、海外でも多くの人に観られている、一種のマスターピースであることは否めない。子ども向け映像作品で最後に主人公が命を落とすという残酷でありつつ斬新なストーリーで、アニメ映画が子ども向けに限らず老若男女の鑑賞に値する芸術であることを証明することもできた。
そこはそれとして、ただただ哀れな清太や節子のアニメーションらしい愛らしさが、ちょっと胸に痛すぎたのだ。また登場人物の内面描写が子どもたちだけに限られているのも、観ていて居心地の悪さを感じた。
このドラマでは、主人公を清太兄妹と久子一家の両者にわけ、双方を同じウェイトで描いている。
物語は現代になって95歳で大往生した久子の火葬のシーンから始まる。娘のなつ(岸惠子)は母親の遺骨を拾って、「お母さんの戦争がやっと終わった」とつぶやく。彼女たち親子にとって、戦争は1945年8月15日に終わったのではなかった。一家の大黒柱を失い、4人の子どもを抱えて戦後の混乱期を生き抜かねばならなかった彼女たちにとって、毎日を生きてやり過ごすことそのものが戦争だった。人間らしい心など省みる余裕などなかった。
それで彼女たちが傷つかなかったわけはない。戦争で傷つくのは、なにも憐れに命を落とす人々だけではない。生きている者も皆が深い傷を負い、心に血を流しながら生きていかなくてはならないのだ。
久子の清太兄妹に対する仕打ちは確かに大人気なく、観ていてかなりつらかった。だが自ら彼女の立場に立ったとき、果たして彼女のとった行動以外の何ができたか、私にはわからない。わが子には己の食べるものを分けてでも食べさせたい。だが他人に食べさせるものがあればそれを奪ってでもわが子に食べさせねばと考えるのもまた母親のしたたかさであり、それを否定することは、まして非常時にできるものではない。
そんな風に、人を人でなくさせるのが戦争のもっとも残酷な部分なのだろう。それはどこかの誰かがラジオの向こうから「残念だけど戦争には負けた。これでおしまい。たいへんだけどまたみんなでがんばろう」などといってチャラになったりはしない。そうして傷ついたものは、二度と元には戻らないのだ。
久子は「これ以上変わっていく義姉さんをみていたくない」と家を出ていく義弟・善衛(要潤)に向かって、傲然と「これが戦争よ」といい放つ。
どんな正義も大義名分も優しさも絆も温かさも世間体も、恐怖をおぼえるほどの空腹の前になんの意味ももたない。そこに人間性などかけらも必要ない。彼女にとっては、家族を死なせない、1日でも長く家族を生かしておくことだけが重要で、他のなにもかもがどうでもいい。戦争が終わり、清太も節子も亡くなった後、彼女が一言も戦争の話をしなかったのは、思い出したくないのではなく、忘れたくても忘れられるものでもなく、それ以上に、いま目の前にいる家族を支えていくだけで感傷に浸る心の余裕をもたなかったからではないだろうか。
そうした久子の冷徹さの中に、戦争の真の恐ろしさを表現した作品として、納得の完成度だったと思います。
「軍人は国をまもってなんかいない。嫌がる人を戦場に駆り出して虫けらみたいに殺すだけ」というセリフもあった。
いまの日本の映像作品で、もしかするとこういうセリフはなかなかいえないかもしれない。たった10年かそこらでいったい何があったのやら。
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