小さな命の意味を考える会
東日本大震災の津波で74名の児童と10名の教職員が犠牲になった石巻市立大川小学校の事故を考える「小さな命の意味を考える会」の座談会(3回目の勉強会)に行ってきた。
最初の回は事故と事後対応の概要について、2回目は事故後2年経って行われた検証委員会についてのプレゼンと質疑応答があって、3回目は周辺全体の事情も含めて参加者全員が質問を書いて、それらに主にご遺族が回答した。
例によってかなり繊細な話になりがちなので詳細はここでは控えたいが、こうして皆さんのお話を聞く機会を何度か繰り返すことによって痛感することがある。
それは、この事故があまりにも特異であるがために、誰にもどう向きあうべきかという正解がない。それぞれの認識の一種の“エアポケット”のために、あらゆる人と人との間に目に見えない溝のような壁のようなものが無意識に出来上がってしまっているということである。
まず地域の人とご遺族の間にもすでにそれはある。震災で身内や親しい人を亡くされたり、家や財産や仕事を失った被災者は大川小学校のご遺族だけではない。だとしても「同じ被災者同士」という共感がどこにでも簡単に生まれるわけではない。
54家族いるご遺族にしても、全員がまるっきり同じ方向、同じ姿勢で事故に向きあえるわけではない。語り部活動に参加される方もいればされない方もいるし、訴訟に参加されるご家族もあればされないご家族もある。それぞれに事情もある。
被災地の外からくる人間は、この事故に第三者としてどう関わっていけるものなのかをどうしてもはかりかねてしまう。どんなに意識するまいとつとめても、無関係な人間がこれほどの大事故に関わることへの無駄な“斟酌”“忖度”に、つい立ち止まってしまいがちになる。
今回とくに参加者が繰り返し口にしたのは、そこに影響するメディアの姿勢だった。
どういうわけか今回は2回目にはほとんどいなかったメディアが何社か出席していたせいかもしれないが、やたら中立を装わんがためにご遺族や地元の方々それぞれの異なる事情や背景をいちいち対立構造としてとりあげたがる傾向に、幾人もが苦言を呈していた。たとえば訴訟や大川小学校の校舎を遺構として残すことや語り部活動に対して、あたかも現実に「賛成派と反対派がいる」かのように世論が誤解して戸惑ってしまうのは、安易に客観的立場に拘泥する報道の責任なのではないかと。
それらの指摘に抗弁するメディアは誰もいなかった。
私個人は、そこで毅然と自分の意見がいえるメディアがひとりくらいいたっていいと思ったのだが、残念ながら、この問題にジャーナリストとして根性いれてとりくんでますよという矜持を正面きって示せる人は、今回はたまさかいなかったのかもしれない。
この発言中に、6年前、被災地でのボランティアに参加するかどうか悩んで、何度も参加した説明会で耳にしたあるフレーズを思い出していた。
現地の様子を報告してくれた人の言葉だった。
「被災地」という地名はどこにもない。
「被災者」という名前の人もいない。
状況もご事情もお気持ちも、ぜんぶそれぞれです。
そして復興の主役は、被災された地域、被災された方々ご自身です。
当たり前のその言葉は、いまも私の根幹にある。
だがおそらくは、こうした認識は人が望むほど一般的には浸透してはいない。
その責任の一端は、6年間ずっと関わり続けてきた、私のような人間にあるのかもしれないと、思った。
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講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著
9月10日の夜、石巻市内で行われたイベント。著名なアーティストがこの日のためにつくった曲を生演奏して、みんなで踊った。
6年前の震災直後の街の惨状を思い出して、胸がいっぱいになった。たくさんの人が、この美しい土地の復興を心から願って心血を注いできたこの6年。
でもまだ、この輪に加われない人もいる。長い長い道のりはいまも続いている。
復興支援レポート
東日本大震災の津波で74名の児童と10名の教職員が犠牲になった石巻市立大川小学校の事故を考える「小さな命の意味を考える会」の座談会(3回目の勉強会)に行ってきた。
最初の回は事故と事後対応の概要について、2回目は事故後2年経って行われた検証委員会についてのプレゼンと質疑応答があって、3回目は周辺全体の事情も含めて参加者全員が質問を書いて、それらに主にご遺族が回答した。
例によってかなり繊細な話になりがちなので詳細はここでは控えたいが、こうして皆さんのお話を聞く機会を何度か繰り返すことによって痛感することがある。
それは、この事故があまりにも特異であるがために、誰にもどう向きあうべきかという正解がない。それぞれの認識の一種の“エアポケット”のために、あらゆる人と人との間に目に見えない溝のような壁のようなものが無意識に出来上がってしまっているということである。
まず地域の人とご遺族の間にもすでにそれはある。震災で身内や親しい人を亡くされたり、家や財産や仕事を失った被災者は大川小学校のご遺族だけではない。だとしても「同じ被災者同士」という共感がどこにでも簡単に生まれるわけではない。
54家族いるご遺族にしても、全員がまるっきり同じ方向、同じ姿勢で事故に向きあえるわけではない。語り部活動に参加される方もいればされない方もいるし、訴訟に参加されるご家族もあればされないご家族もある。それぞれに事情もある。
被災地の外からくる人間は、この事故に第三者としてどう関わっていけるものなのかをどうしてもはかりかねてしまう。どんなに意識するまいとつとめても、無関係な人間がこれほどの大事故に関わることへの無駄な“斟酌”“忖度”に、つい立ち止まってしまいがちになる。
今回とくに参加者が繰り返し口にしたのは、そこに影響するメディアの姿勢だった。
どういうわけか今回は2回目にはほとんどいなかったメディアが何社か出席していたせいかもしれないが、やたら中立を装わんがためにご遺族や地元の方々それぞれの異なる事情や背景をいちいち対立構造としてとりあげたがる傾向に、幾人もが苦言を呈していた。たとえば訴訟や大川小学校の校舎を遺構として残すことや語り部活動に対して、あたかも現実に「賛成派と反対派がいる」かのように世論が誤解して戸惑ってしまうのは、安易に客観的立場に拘泥する報道の責任なのではないかと。
それらの指摘に抗弁するメディアは誰もいなかった。
私個人は、そこで毅然と自分の意見がいえるメディアがひとりくらいいたっていいと思ったのだが、残念ながら、この問題にジャーナリストとして根性いれてとりくんでますよという矜持を正面きって示せる人は、今回はたまさかいなかったのかもしれない。
この発言中に、6年前、被災地でのボランティアに参加するかどうか悩んで、何度も参加した説明会で耳にしたあるフレーズを思い出していた。
現地の様子を報告してくれた人の言葉だった。
「被災地」という地名はどこにもない。
「被災者」という名前の人もいない。
状況もご事情もお気持ちも、ぜんぶそれぞれです。
そして復興の主役は、被災された地域、被災された方々ご自身です。
当たり前のその言葉は、いまも私の根幹にある。
だがおそらくは、こうした認識は人が望むほど一般的には浸透してはいない。
その責任の一端は、6年間ずっと関わり続けてきた、私のような人間にあるのかもしれないと、思った。
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9月10日の夜、石巻市内で行われたイベント。著名なアーティストがこの日のためにつくった曲を生演奏して、みんなで踊った。
6年前の震災直後の街の惨状を思い出して、胸がいっぱいになった。たくさんの人が、この美しい土地の復興を心から願って心血を注いできたこの6年。
でもまだ、この輪に加われない人もいる。長い長い道のりはいまも続いている。
復興支援レポート
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