『マイ・ブルーベリー・ナイツ』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0012GAYMU&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
ぢつは。
ぐりこの映画、公開初日に一度観てます(爆)。でも寝てしまった。例によって花粉症のクスリの副作用で、どーしても我慢できず。メンフィスのパートまでは頑張って目開けてたんだけどね。ううう。
それでレディースデイに再チャレンジ。今日はクスリは飲まず、かゆいのは堪えて映画に集中することにしましたとも。
上映後の帰りがけに、同じ回を観てた他の客が思いっきり「内容がない」とかいってましたが。
まーそれをいいだしたら王家衛(ウォン・カーウァイ)の映画は大抵「内容がない」ってことになっちゃいますね(笑)。大体は男と女が出て来て腐りかけた不毛な愛にぐじぐじぐじぐじと悩む、ただただそれだけのメロドラマだもん。
けどさ、映画だよ。たかが映画。世の中すべての映画が全部、映画史に残る大傑作だったり、驚異の芸術大作だったり、観客全員大号泣の感動作だったりする必要はまったくない。メロドラマで何が悪い。どーせ人間なんてみんな、大なり小なり叶わぬ愛の残骸を悔やみながら、意味もなくみっともなくうじうじと死んでいく、くだらない生き物なんだからさ。
とかいってみてもやはりこの映画、内容、ないです(爆)。なすぎ。かあー。残念。
全編どのシーンも、どの登場人物も超デジャヴュ。カフェにバーにカジノ、おまわりさんにウェイトレスにギャンブラー、路面電車に地下鉄に手紙に電話に時計といった細かいモチーフから、プロダクション・デザインも衣装もヘアメイクも、カメラワークやライティングさえも、すべてが王家衛の既存の作品のトーンをそっくり引き継いで、ただロケ場所をアメリカに持って来ただけ。
だから物語がものすごく舞台から浮き上がって見える。ニューヨークとかメンフィスとか地名はやたらに強調されるけどリアリティがまったくない。レイチェル・ワイズやデヴィッド・ストラザーンの南部訛りはヘタ過ぎるし(英語がよくわからないぐりでさえヘタクソに聞こえる)、ナタリー・ポートマンはギャンブラーの放蕩娘にしてはこざっぱりし過ぎている。ちなみにワイズはイギリス出身、ポートマンはイスラエル出身、ジュード・ロウもイギリス人なので、この映画の人物造形がまったくアメリカっぽくないのはそういう意味では致し方ないのかもしれない。
もともと王家衛はアテ書きでストーリーを組んで、出演者が本来持っている世界観から絞り出される人間性そのものを、長い撮影期間をかけて映像に抽出してまとめていく方法でこれまで映画をつくってきたけど、ハリウッドではそんなムチャは許されない。許されるとしてもデヴィッド・リンチくらいの変人だけだ(『インランド・エンパイア』にはシナリオがない)。まあだから今回はせいぜい『The Lady From Shanghai』の予行演習でしかないし、作品のレベルも予行演習程度である。しょうがなし。
ただ、先述の通り画面はいつもの王家衛ワールド全開だし、音楽も1曲は『2046』からメロディラインを流用してるし、スー・リンとかレスリー(涙)とか聞き覚えのある名前も出てくるし、王家衛ファンならそこそこ楽しめることは楽しめる。
それにしても張叙平(ウィリアム・チョン)のプロダクション・デザインはいつもステキだ。衣装もヘアメイクもいつもながら素晴しい。この人の参加した作品を観るたび、オシャレってこんな風に楽しいものなんだよなと改めて思いだす。
今日は2度めということもあって、登場人物をいつもの王家衛組なら誰に当たるかついつい対応しながら観てしまった。ぐり的にはジュード=金城武、ジョーンズ=王菲(フェイ・ウォン)、ワイズ=劉嘉玲(カリーナ・ラウ)、ポートマン=張曼玉(マギー・チャン)あるいは『2046』の鞏俐(コン・リー)かなあ?けどストラザーンは梁朝偉(トニー・レオン)に対応するには可愛げがなさすぎるしな・・・とかなんとかどーでもええことをゴチャゴチャ考えちゃうくらい、タイクツだったのさあ〜〜〜(爆)。
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ぢつは。
ぐりこの映画、公開初日に一度観てます(爆)。でも寝てしまった。例によって花粉症のクスリの副作用で、どーしても我慢できず。メンフィスのパートまでは頑張って目開けてたんだけどね。ううう。
それでレディースデイに再チャレンジ。今日はクスリは飲まず、かゆいのは堪えて映画に集中することにしましたとも。
上映後の帰りがけに、同じ回を観てた他の客が思いっきり「内容がない」とかいってましたが。
まーそれをいいだしたら王家衛(ウォン・カーウァイ)の映画は大抵「内容がない」ってことになっちゃいますね(笑)。大体は男と女が出て来て腐りかけた不毛な愛にぐじぐじぐじぐじと悩む、ただただそれだけのメロドラマだもん。
けどさ、映画だよ。たかが映画。世の中すべての映画が全部、映画史に残る大傑作だったり、驚異の芸術大作だったり、観客全員大号泣の感動作だったりする必要はまったくない。メロドラマで何が悪い。どーせ人間なんてみんな、大なり小なり叶わぬ愛の残骸を悔やみながら、意味もなくみっともなくうじうじと死んでいく、くだらない生き物なんだからさ。
とかいってみてもやはりこの映画、内容、ないです(爆)。なすぎ。かあー。残念。
全編どのシーンも、どの登場人物も超デジャヴュ。カフェにバーにカジノ、おまわりさんにウェイトレスにギャンブラー、路面電車に地下鉄に手紙に電話に時計といった細かいモチーフから、プロダクション・デザインも衣装もヘアメイクも、カメラワークやライティングさえも、すべてが王家衛の既存の作品のトーンをそっくり引き継いで、ただロケ場所をアメリカに持って来ただけ。
だから物語がものすごく舞台から浮き上がって見える。ニューヨークとかメンフィスとか地名はやたらに強調されるけどリアリティがまったくない。レイチェル・ワイズやデヴィッド・ストラザーンの南部訛りはヘタ過ぎるし(英語がよくわからないぐりでさえヘタクソに聞こえる)、ナタリー・ポートマンはギャンブラーの放蕩娘にしてはこざっぱりし過ぎている。ちなみにワイズはイギリス出身、ポートマンはイスラエル出身、ジュード・ロウもイギリス人なので、この映画の人物造形がまったくアメリカっぽくないのはそういう意味では致し方ないのかもしれない。
もともと王家衛はアテ書きでストーリーを組んで、出演者が本来持っている世界観から絞り出される人間性そのものを、長い撮影期間をかけて映像に抽出してまとめていく方法でこれまで映画をつくってきたけど、ハリウッドではそんなムチャは許されない。許されるとしてもデヴィッド・リンチくらいの変人だけだ(『インランド・エンパイア』にはシナリオがない)。まあだから今回はせいぜい『The Lady From Shanghai』の予行演習でしかないし、作品のレベルも予行演習程度である。しょうがなし。
ただ、先述の通り画面はいつもの王家衛ワールド全開だし、音楽も1曲は『2046』からメロディラインを流用してるし、スー・リンとかレスリー(涙)とか聞き覚えのある名前も出てくるし、王家衛ファンならそこそこ楽しめることは楽しめる。
それにしても張叙平(ウィリアム・チョン)のプロダクション・デザインはいつもステキだ。衣装もヘアメイクもいつもながら素晴しい。この人の参加した作品を観るたび、オシャレってこんな風に楽しいものなんだよなと改めて思いだす。
今日は2度めということもあって、登場人物をいつもの王家衛組なら誰に当たるかついつい対応しながら観てしまった。ぐり的にはジュード=金城武、ジョーンズ=王菲(フェイ・ウォン)、ワイズ=劉嘉玲(カリーナ・ラウ)、ポートマン=張曼玉(マギー・チャン)あるいは『2046』の鞏俐(コン・リー)かなあ?けどストラザーンは梁朝偉(トニー・レオン)に対応するには可愛げがなさすぎるしな・・・とかなんとかどーでもええことをゴチャゴチャ考えちゃうくらい、タイクツだったのさあ〜〜〜(爆)。
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