落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

オスカーまつり

2008年04月26日 | movie
『アイム・ノット・ゼア』
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歴史に残る生ける伝説と化した奇跡のアーティスト、ボブ・ディランを6人の俳優が演じたコンセプト・ムービー。
実際観てみるまでは何がどーなってんだかイマイチ予想がついてなかったんだけど、観たら全然わかりやすかった。すっごいストレート。超シンプル。おもしろいし、しかも斬新。着眼点というか切り口というかアプローチが新しくて、かつ正直なの。観てて気持ちいい映画って、こーゆーのをいうのかも。
実をいうとぐりはボブ・ディランについてはあんまりよく知らない(爆)。もちろん名前は知ってるしヒット曲なら聴けばわかるけど、べつにファンじゃないしアルバムも一枚も持ってない。
そんなぐりが観ても「わかりやすい」と感じるんだから、これはスゴイ映画なんじゃないだろーか。

この映画のタイトルは直訳すれば「そこに僕はいない」という意味だけど、テーマはまさに「そこにある」。
ボブ・ディランはいかにして“ボブ・ディラン”たりえたのか、“ボブ・ディラン”であるということがどういうことなのかを、極力ボブ・ディラン本人に的を絞って描いている。なので背景描写は必要最低限しかでてこないし、登場人物も意外なほど少ない。その代り、ボブ・ディランはその側面・年代に応じて6人の俳優が演じわけていて、役名もそれぞれ別の名が与えられている。
でも観ていて違和感のようなものはほとんど感じない。不思議なことに。ボブ・ディランが6人いるのがとにかく自然なんだよね。人間には誰しも多面性があるし、“ボブ・ディラン”は実在の人物だから、こういう突飛なギミックがむしろリアルにも感じる。逆に、6人もの俳優がひとりの人物を演じることで、「そこに僕はいない」というメッセージが非常に効果的に表現されているようにも思える。“ボブ・ディラン”は「そこにはいない」、そして同時に「そこにいる」。
かみくだいていってしまえば、“ボブ・ディラン”は生身の肉体を離れた、一種の観念のようなものになってしまっている、ということになる。世界を熱狂させたスター、時代の代弁者、アメリカの誇り、孤高の芸術家、そんなイメージを彼が自らオーディエンスに強要したことはない。ただただ彼は自分の感じたこと、訴えたいことを歌っただけなのに、人々はそれ以上の何かを彼に一方的に求めるようになってしまった。
その現実を受け入れてなお“ボブ・ディラン”でありつづけるのは誰の目から見てもハードだ。それを真正面から描いているのがこの『アイム・ノット・ゼア』である。スゴイ。てゆーかどーやってつくったのかさっぱり想像つかない映画って久々に観た気がする。

キャスティングがすごくよくてとくに女優陣はみんな好きな人ばっかりだったんだけど、なかでもやっぱケイト・ブランシェットは素晴しかった。神です、彼女は。スゴすぎるー。
ヒース・レジャーは観ててしんどかったです。それ以外何もいえない。
イディ・セジウィック(役名はココ)を演じた元パートナーのミシェル・ウィリアムズとはこれが最後の共演になってしまったのも惜しまれる。


負け犬にも三分の理

2008年04月25日 | book
『肝、焼ける』 朝倉かすみ著
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昨日のTBSラジオ「ストリーム!」のコラムの花道は二大書評家・豊崎由美氏と永江朗氏両者による「本はなぜ売れなくなったのか?出版不況の問題」。
おふたりがどう考えてるかは番組を聴いていただくとして、ぐりがあまり本を買わなくなった理由はもう「本屋に行かなくなった」、コレに尽きる。
ぐりはもともと本屋が大好きで、大学に入学して初めてのアルバイト先もまず本屋だった。時給¥620(マクドナルドより¥300以上安かった)ではとてもやってけないので3ヶ月で辞めたけど(爆)、それでも一度はどうしても本屋で働いてみたかったのだ。けど実際にやってみたらコレが意外に重労働で、大好きな本に囲まれて働けるなんてステキー♪なんて浮かれ気分は瞬時に叩き潰されることになった。
ぐりが本屋にいて楽しいのは、棚に並んだたくさんの本たちみんなの「オレを読め!」「あたしをみて!」と呼ぶ声が情報の雨のように脳を刺激して、異様な高揚感を感じるところだ。昂奮しすぎてわりとあっという間に疲れてしまうので、ヘタに長居をするとへとへとになって何も買えないまま退散するか、どうでもいい本を山ほど買ってしまって大後悔するかのどちらかである。
でも昔は今ほど疲れなかったように思う。やっぱり新刊が多過ぎてしかも出版物自体の質が落ちたからなのだろうか。流行りモノ一色の特集コーナーや、頼まれても読みたくないような類いの新刊が山積みされたワゴンや、やたらめったらカラフルなポップまみれの平台を見ただけでげんなりしてしまう。
だから今は、読みたい本はまず図書館で借りて読んで、くり返し読みたいくらい気に入った本や、所有しておきたい本だけを通販で買うようになった。本屋に行くのは気分転換や情報収集のときだけに限られるようになった。
本屋に行けばワクワクウキウキする気持ちには今も変わりはない。けど、正直にいってそれほどひんぱんに行きたいとは思わない。昔のようにゆっくり落ち着いて本が選べるような店なら通いたいけど、そういう店はなかなかないんだよね。

そんなワケでぐりは日本の現代作家にヒジョーに疎い。完全にブックレビュー頼りである。文学賞とか映画化とかはハナからどーでもいい。本屋さんはなんか勘違いされてると思いますが、本読みって人種はそーゆーの大体あんまキョーミないんじゃないかね?
頼りにしてるレビューはほとんどが一般読者のブログと、それと「ストリーム!」。この本もだいぶ前にトヨザキ社長がオススメされてた本です。表題作の他に4編を収録した短編集。いずれも20〜40代の女性を主人公にした結婚をめぐる物語である。どれも社長のいう通りメチャクチャよく書けてて素晴しかったのだが、中でも共感したのは『肝、焼ける』と『コマドリさんのこと』。
『肝〜』は24歳の御堂くんに恋した31歳の真穂子が、御堂くんの転勤先に旅するお話。
『コマドリ〜』は周りに「いいお嫁さんになるよ」といわれながら独身のまま40代になったコマドリさんのお話。
『肝〜』の真穂子は読んでて「これってアタシのことじゃない?!」と怖くなってしまうくらい、ぐりによく似ていた。自分ではいいオトナのつもりで、年甲斐もなく恋愛でみっともないことはしたくなくて、でも結局どうしたいのかがわからない、不器用な真穂子さん。御堂くんと出来るだけ対等でいたくて、対等でいられなくなることがこわくて、それでも御堂くん恋しさを抑えきれない真穂子さん。わかるよそれ!わかるわかる!と読みながら何度も声を大にして叫んでました。心の中で。
コマドリさんは逆にぐりと似たところはあまりない。公務員の家庭に生まれ育って、少女時代からずうっとさっぱりモテなくて、花嫁修業に着付けとお花を習ってはみたものの3度のお見合いは全滅、年齢=彼氏いない歴のまま、処女のまま40代になったコマドリさんだけど、それでも「あ、おんなじだ」と思ってしまうところがあった。まず“ロマンチックは向こうから来てもらわないと困る”ってところと、恋愛で傷つくことに異常に臆病なところ。

どれもこれも設定としてはけっこうイタイ話ばかりだけど、共通しているテーマは「女の矜持」。
21世紀になっても「女は産む機械」なんて大臣の言葉に臆面もなく賛同する人間がいるくらい時代錯誤な日本の男女観。みんな口では当たり障りのないことをいうし、日本の世の中は男女平等だとカンペキに思いこんでいる人も大勢いるに違いない。
けど全然違う。全然平等なんかじゃない。
結婚しない女・結婚できない男が増えた最大の原因は、この建て前と現実のありえないほどの巨大なギャップに他ならない。なんだかんだいって、女は結婚すれば子どもを産むものとみんな思っている。子どもを産めば仕事なんか辞めて家庭に入って当り前だとみんな思っている。子どもが大きくなって家計がしんどくなったら社会復帰するのはアリだけど、所帯持ちの女を出産前と同じ条件で雇ってくれる職場なんか現実には存在しない。そして自分たちの親が年をとってくれば介護するのは女の役目だと、やはりみんなが思っている。結婚もせず子どもも産まない女は生きてる資格ないでしょ?なーんて、ココロのどっかでみんな思ってたりする。
それ、全然平等じゃないじゃん。結婚も出産も育児も家事も介護もそれぞれに人として大事な一大事業だ。それを「やって当り前」「できて当り前」で片づけられては困る。
この本の物語にはとくにそういうことはくどくどと書かれてはいない。でも登場する女性たちにはそれぞれ、未婚・既婚に関わらず「リスぺクトされたい」というプライドがある。モテるとかモテないとか、年増だからとか若いからとか、そういうグローバルスタンダードはどうでもいいから、生きてる人間として、女だって、リスぺクトされたいのだ。せめて今、向かいあっている相手からはリスぺクトされたい。
損得勘定なんかじゃない、ただ大事にされたいだけ、無邪気にそれを夢みることに罪はないはず。

女性が読めば誰でも激しく共感できること請けあいの名著ですが、ぐりはあえてコレ男性に読んでほしいですね。女心のコワイ部分・もろい部分がすごくリアルに描かれてます。
それとこの朝倉さんという作家は文体が独特でおもしろい。一文一文が非常に簡潔で短くて、感触がすごくさっぱりしてる。雰囲気的には落語を聴いてるみたいな感じの文体なの。言葉遣いもちょっと古かったりして。
これから『田村はまだか』と『そんなはずない』も読む予定です。

ハート形の記憶

2008年04月22日 | book
『ハートシェイプト・ボックス』 ジョー・ヒル著 白石朗訳
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先日あるレストランで食事をしたとき、ウェイターに見覚えのある男の子がいた。
しっかりとテーブルに屈んでこちらの顔を覗くようにして「おまたせしました」とにっこり笑い、丁寧に皿を置く。旧共産圏もかくやといわんばかりに無愛想な(でなければ神経症的なほどにマニュアルじみた)昨今の東京のサービス業の方々の態度に慣れっこになっている身としては、ちょっとびっくりしてつい顔をまともに見てしまった。
それで「おやっ?」と思った。誰かに似ている。でもそれが誰なのかは思いだせない。食事をしている間中、一生懸命記憶を辿ったのだが、結局店を出るまで思いだせなかった。
実はこれと同じようなことが少し前にもあった。やはり初対面のある人が強烈に「誰かに似ている」ように思えて仕方がない。それも雰囲気がとか目鼻立ちがとかいった生半可な似方ではなくて、顔かたちはいうに及ばず、背格好から身のこなし、ちょっとした表情や声音や喋り方や仕種まで、なにもかもにものすごいデジャヴュを感じる。ヘタしたら前にどこかで会ったかもしれないとも思うが、物理的にそれはなさそうである。じゃあその似ているはずの「誰か」は何者なのか。
しばらく考えて、その人は誰にも似てないという結論を出した。強いていうなら、いわゆる「同族顔」だったかもしれない。親戚同士は血が繋がっているので身体的特徴に明確な共通点があって、何十年会わなくてもひと目みればなんとなく勘が働いて懐かしさを感じるものだ。その人が具体的にぐりの親類の誰某に似ているということはないけど、体型や顔のパーツや肌の質感など、ディテールには確かにぐりのいとこたちにみられる特徴に共通するものがある。ぐりが偶然感じたデジャヴュはDNAの反応のようなものなのかもしれない。

たぶんこんなことを頻々と感じるようになったのは、ぐりが年をとって記憶力が老化して来た証拠なのだろう。
人間の記憶は、パソコンに喩えるなら、まずデスクトップに「メモ」として置かれる。そしてしかるべき後に内容の重要度と汎用性に応じてふりわけられ、ハードディスクにセーブされる。セーブされない「メモ」はデリートされ、セーブされた「メモ」は「記憶」になり、年月と経験に伴って整理・リライトされていく。こういった作業は大体が睡眠中に行われる。睡眠学習なんてのが流行ったのはこのせいだ。
年をとると記憶力が弱くなるとよくいうが、単にそれは「記憶」をセーブしておくハードディスクの残り容量が減るからである。「記憶=メモリー」を外部にバックアップしておくなんてことは人間の脳にはできない。逆に「記憶」を整理する能力はあるから、整理された記憶が自動的に合成されて、実際にはありえない光景を現実のように記憶していたり、見たはずのない情景にデジャヴュを感じたりするという現象が起きる。類似性のある「記憶」が整理されて重なりあい、新しい「記憶に似たもの」が脳の中でつくられることがあるからだ。
知らないはずの人物に懐かしさを感じるのも、それと同じような現象なのではないだろうか。

『ハートシェイプト・ボックス』は記憶との戦いの物語である。
ロックスターのジュードには、連続殺人犯が描いたスケッチや絞首台のロープやスナッフフィルムなど、薄気味の悪いモノをコレクションする趣味があった。あるとき彼は「幽霊の憑いたスーツ」をネットオークションで手に入れるのだが、届いた品は自殺した元恋人アンナの亡義父の遺品だった。以来ジュードの自宅には義父の幽霊が出没するようになり、やがて身辺にはとんでもない災難が次々とふりかかってくる。
始まりはいかにもオカルトホラーらしいが、物語が進行してくるにつれ、この小説のテーマが死者の呪いとの戦いではなく、自己の記憶との戦いであることがわかってくる。アンナと義父の間には知られざるおぞましい過去があった。ジュードも家を出てから30年以上、故郷へ足を踏み入れていなかった。現在の恋人メアリベスにも消したい過去・他人にはいえない過去があった。彼らはそれらの残酷な過去から逃げたい一心で記憶に鍵をかけ、できるかぎり遠くへ逃れようと必死に生きて来た。しかし人間は自ら記憶から逃げることはできない。記憶の積重ねこそがその人を人間たらしめるアイデンティティだからだ。決着をつけるには、自らその過去に立ち向かう以外にすべはない。

そういう主題は非常に興味深くはあったのだが、いかんせんこの小説は長い。内容のわりに長過ぎるし、似たような描写がくどくどくどくどとくり返し出てくるのには心底参った。読んでてなんだか疲れてしまったよ。
犬を守護神として描いたり、音楽を霊を遠ざけるアイテムとして描いたりするのはいいけど、あのエンディングはどうにも予定調和過ぎて拍子抜け。
タイトルの“ハート形の箱”は作中に登場するチョコレートのギフトボックスのことなんだけど、おそらく1993年に発表されたニルヴァーナの曲名から借用したものだろう。ぐりはこの本を読んで初めて聴いたんだけど(爆)、もしかするとロックに造詣の深い読者ならもっと共感できる小説なのかもしれない。ずびばぜん〜。
この作品は既にニール・ジョーダンによる映画化が決定していて、公開は2010年の予定だそうだ。まあね、大体どーゆー映画になるのかはもうわかりきってるけどね〜。


Heart - Shaped Box by Nirvana

She eyes me like a pisces when I am weak
I've been buried inside your Heart Shaped box, for weeks
I've been drawn into your magnet tar pit trap
I wish I could eat your cancer when you turn black

Hey!
Wait!
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice
hey
wait
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice
Hey!
Wait!
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice

...your advice

Meat-eating orchids forgive no one just yet
Cut myself on Angel Hair and baby's breath
Broken hymen of your highness I'm left black
Throw down your umbilical noose so I can climb right back

Hey!
Wait!
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice
hey!
Wait!
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice
Hey!
Wait!
I've got a new complaint
Forever in debt to your priceless advice
Your advice
Your advice
Your advice

誰が子どもを殺したのか

2008年04月21日 | book
『秋田連続児童殺害事件―警察はなぜ事件を隠蔽したのか』 黒木昭雄著
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秋田連続児童殺害事件とは、2006年5月18日に秋田県の川べりで前日から行方がわからなくなっていた当時小学一年生の男児が遺体で発見され、その後、被害者宅の2軒隣の主婦が死体遺棄容疑で逮捕された事件。容疑者は事件の前月に当時小学4年生だった娘を“水死”で亡くしたばかりだったのだが、取調べが進むと娘も自ら殺害したことを自供、ふたりの子どもの殺害容疑で逮捕起訴され、先月一審で無期懲役の判決がおりたが、弁護側・検察側の両者ともに控訴中である。

ぐりはこの事件のころ既にTVをまったくみなくなっていたのだが、それでもこの時期のマスコミの狂乱ぶりは記憶に新しい。電車で通勤していればイヤでも目につく週刊誌の車内吊りには、娘を亡くした悲しみから近所の子どもを発作的に手にかけたという当初の被告の供述が翻されて以来、やれ水商売だの売春婦だの男狂いだのセックス狂だの、ろくに食事も与えず娘を虐待してただの、直視に堪えないほど醜悪なゴシップが満ちあふれていた。
いうまでもないがそれらの報道の大半は真っ赤なウソ、完全なデタラメだった。そしてその根源は、被告の娘の死をほとんど捜査もせずに事故と決めつけた警察からのリークだった。
ここまでは大してショッキングな話ではない。ストーカー規制法成立のきっかけとなった桶川ストーカー殺人事件(『遺言─桶川ストーカー殺人事件の深層』)で、被害者と遺族がさんざんに嘗めた屈辱を思い返せばいいだけの話だ。あの時、埼玉県警は何度も被害者にストーカー被害の相談を受けたにもかかわらずまったく捜査をせず、結果として被害者は殺されてしまうという悲劇を招いただけでなく、ごくふつうの学生だった被害者をあたかも派手好きで遊び好きな風俗嬢であるかのように仕立て上げ、「殺されて当り前の女」というウソのイメージを宣伝した。後に警察内部で捜査上の不正が発覚、署員3名が実刑判決を受けたものの、遺族が起した国家賠償請求訴訟は一昨年夏に最高裁で原告敗訴が確定している。

ところがー。この秋田連続児童殺害事件では秋田県警では誰ひとり、いっさい何の処分すら受けていないのである。やるべき捜査を完全に怠った上、事実に反する広報を垂れ流し、捜査内容を捏造までしたことが明らかになっているのに、である。少なくとも、4月に被告の娘が遺体で発見されたときにきちんと捜査をしていれば、もうひとりの被害者はでなかったはずなのだ。
コレ、秋田県民はもっと怒るべきなんじゃないの?だってケーサツは市民の安全を守るのが仕事でしょ?なんでこんなことが起こり得る?どーしてー?容疑者がウソツキだの聞き込みで住民の協力が得られないだの、そんなことケーサツがゆーことじゃないじゃん。このヒトたちカンペキに市民をコケにしてるとしか思えないんですケド。
結論からいえば、この本には“警察はなぜ事件を隠蔽したのか”という肝心な答えは書かれていない。まだ公判中の事件でもあるし、わからない事実が多すぎるからだ。そこは著者もかなりはっきりと潔く述べている。
なのでこの本のテーマは“警察が事件を隠蔽し得る”環境、つまり大本営発表しか報道できない記者クラブ制度の腐敗である。
著者は元警察官なのでそこのその部分についてはさほど厳しく追及はしていない。だが、暗に遠回しに、マスコミも警察に負けず劣らず堕落していることが、事件をここまで醜悪にしてしまったことを指摘しているのだ。

事件そのものについては、今後も裁判の進行とともにまた新たな事実がでてくるだろうし、いずれは被告の真意が明らかになる日が来るかもしれない。
だが、警察とマスコミのこの腐った関係は、国民がもっと明確な意志をもって糾さなくてはならないのではないだろうか。
被害者遺族は既に国家賠償請求訴訟の準備を進めているともいう。そこで何が暴露されるかに注目したいと思う。

my sweet home

2008年04月20日 | movie
『今夜、列車は走る』

1990年代、アルゼンチンの国鉄が民営化され経営合理化のために多くの路線が廃止になり、6万人もの鉄道員が一夜にして路頭へ放り出された。
物語は組合代表のアンヘルの自殺から始まる。鉄道員たちにとって鉄道は職業・仕事である以上に確固たるアイデンティティでもあり、そして職場はもうひとつの家庭でもあった。それを奪われる悲しみを、アンヘルは乗りこえることができなかった。
死を選ばないまでも、リストラされた他の元鉄道員たちにもなかなか居場所は見つからない。この映画では5人の鉄道員たちとその家族の「廃線後」の日常を通して、人が人として自立して生きていくことの尊さと困難を描いている。
登場する鉄道員たちは20代後半から60代、まあ大体はいいオトナである。でも観ていてなぜか、彼らがいたいけな子どもに見えて仕方がなかった。彼らがみんな、「鉄道員」というアイデンティティに異様にこだわり過ぎているからだ。いくらこだわろうともう鉄道はないのに。
けど人情なんてそんなものなのだろう。誰もがそうドライに割りきれれば人間苦労なんかしない。

この映画のおもしろいところは、企業に体よく捨てられた労働者たちを単なる“被害者”扱いするのではなく、人間誰にでもある「迷い」や「甘え」や「主体性のなさ」の危険性を象徴する存在として描いているところである。
たとえばタクシー運転手に転職したアティリオ(バンド・ビリャミル)は客を信用して強盗に襲われたり贋札をつかまされたり、元同僚にいいようにコケにされたり騙されたり、さんざんな目に遭ってしまう。ひとえに彼が人がよすぎたせいなのだが、社会人として常識がなさすぎるというのもまた事実である。
人間が自立したプライドをもって生きていくには、自分自身の目でものをみて、自分自身のアタマで考えるということが必要不可欠だ。アティリオは鉄道員だった20年の間、その当り前の常識を自分に課することなく暮してきたのだろう。それはそれでハッピーかもしれないけれど、自立した生き方とは到底いえない。

ラストはなんだかギリシャ悲劇の「デウス・エクス・マキナ」的ではあったけれど、わかりやすくて感動的な、たいへんいい映画でした。
地味だけど、たくさんの人に観て、考えてほしい作品です。