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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

my sweet home

2008年04月20日 | movie
『ビルマ、パゴダの影で』

昨年の反政府デモをきっかけに軍事政権と民主化を求める市民との間で緊張が高まっているビルマで、国境地帯の難民キャンプに暮す少数民族や反政府武装組織を取材したスイスのドキュメンタリー(※日本の報道では軍事政権が名乗る「ミャンマー」が正式な国名とされているが、本稿では作品の内容に沿って「ビルマ」と表記します)。
このドキュメンタリーがつくられたのは2004年なのでおそらく現在は多少状況は変わってると思うけど、日本人カメラマンが白昼堂々公衆の面前で射殺されるほど、今も政府軍の海外ジャーナリストに対する姿勢には容赦がない。そんななか、アイリーヌ・マーティー監督は厳しい報道規制をくぐりぬけて少数民族の難民たちに接触し、1988年のクーデター以来反政府運動を続けている民兵組織にも取材している。果敢である。ぐりはTVを観ないので最近のビルマ情勢に関する報道がどうなっているのかよく知らないけど、少なくとも、この映画に登場するほどの極地までアクセスできた報道機関はめったにないのではないだろうか。
そういう意味では確かに非常に貴重な映像ではある。

ひとくちに難民というが、彼らはいったいなぜ、どうして難民になり、そして難民になったらどういう生活が待っているのかが、難民自身の言葉で語られる。
家を破壊され、家族を失い、故郷の村を追われ、密林の中を転々と逃げまどう。キャンプに避難できたとしても安心はできない。いつ政府軍が襲いかかってくるかわからないからだ。
子どもたちは目の前で親を殺された光景をまざまざと記憶している。そして大きくなったら「民兵になりたい」「政府軍に復讐したい」という。ぐりが観ていていちばん悲しいと思ったのはこのシーンだった。たった今「故郷の村に平和が戻ってほしい」といったその口で「政府軍が憎い」という子ども。子どもに罪はない。子どもにはもっと明るくて夢のある将来像が当り前にあるはずなのに、ビルマの難民の子どもの夢は人を殺すことなのだ。

映画は全編音楽が大袈裟な上にナレーションがやたら感情的で、それもやはり欧米人とアジア人との距離感を如実に感じる“上から目線”モロ出しな感じの表現が妙に多いのが鼻についたけど、前述の通り、まず一般の報道機関にはなかなか踏み込めないレベルまで到達しているという意味では一見の価値は充分にある作品になっていると思う。
ただ、同じ難民を扱ったドキュメンタリーとしては先日観たばかりの『パレスチナ1948 NAKBA』ほどの完成度まではいっていない。まあね、かけた時間も根性の入り方も違い過ぎっちゃそーなんだけど。

何がそんなに悪いのか

2008年04月15日 | movie
『彼がいる。彼がいた。』

宏樹(中江俊亮)に「裕太(森英士)とつきあうから」と宣言され複雑な顔の翔(NOBUMASA)。実は翔は裕太に秘かに想いを寄せていて、宏樹は裕太ではなく翔に恋をしていた。
ある日、裕太は宏樹と翔がふたりきりでいるところを偶然目撃して逆上、直後に宏樹は事故で亡くなってしまう。

2003年に発売されたAVですな。コレは。物語はちゃんとしてるけど発売元がAVメーカーですし、こんな涙の純愛ボーイズラブだっちゅーのに途中ガッツリとモザイク入りのラブシーンも2回あるし。
ぐりだってAVとかポルノ、観ます。まるっきり観ないわけじゃない。そうしばしばではないけど。頻度でいえばハレー彗星の接近よりは多いけどオリンピックよりは少ないくらい。ここのブログにはその手の作品のレビューを書くのは初めてだけど、たまたまです。てゆーか観た映像作品・演劇・読んだ本を全部レビューに書いてるわけじゃないしね。うまく書けないこともあれば時間がなくてそれっきりということもある。
それとAVとかポルノってやっぱり映像の質が落ちるものが多いから、観ててもカメラワークやら照明やら録音状態やら編集やらBGMやら、技術的な不完全さばっかり気になってしまってうまく内容に集中できない。だから観るたびに「こーゆーの観るのにも向き不向きってあるんだなあ」と思う。技術面が気になる映像作品なんてAVやポルノだけには限らないけど、とくにこのジャンルは技術的な完成度よりもまず「エロい」とゆーことの方がプライオリティが高いからしょうがないんだよね。なんてエラソーにいえるほど本数観てないんで(たぶん生涯でも10本いかない)、カンペキ当てずっぽうでいっちゃってますが。

この作品は某氏に「すごくよくできてるから」と薦められて観たんだけど・・・うーーーん。ビミョー。映像自体はキレイだし、こざっぱりとスッキリまとまってはいるんだけどね。
でもやっぱ全体に甘い。追いこみが足りない。もっとなんかどーにかなったんとちゃうの〜とゆーヌルさばっかし目についてしまい、まったく感情移入も何もできませんでした。残念ながら。シナリオはあまりに平凡過ぎるし場面展開も退屈。静かな穏やかな情景描写がやりかったんだろーなとゆーのはわからんではないけど、意識しすぎて画面ガチガチやんけー。カメラに動きはなさすぎるし、芝居の間も一本調子でメリハリがない。作戦としてセリフを削った分は画で表現せんと。全体としては流れが極端に淡々とし過ぎていて、盛り上がりとゆーものがいっさいない。そんなものAVに求める方が間違ってるんでしょーか。よくわかりませんが。
役者は3人とも20歳前後で演技の経験はほとんどないものと思われ。その割りには一生懸命真剣に演じてる感じは非常に伝わるだけにもったいない。テーマも悪くないのに、すごく惜しい。

ちなみにこの作品は『毛衣』というタイトルで中華系動画投稿サイトで一部が観られる。
投稿サイトなので規約に反してるパートはばっつり切ってあって、しかもテーマ曲まで勝手につけてあるとゆー(呆)。中国語字幕もついてたりします。インターナショナルなり日本のBL(今さら)。

今まで書かなかったAVのレビューを突然今日書こうと思ったのにはわけがある。
数年前のことだが、某有名ミュージシャンが売れない前に俳優として数本のVシネマに出演していたことがスキャンダルになったことがあった。出演作のうちの数本がたまたまセクシュアルな内容で、演じた役にたまたまセクシュアルなシーンがあったからである。
ぐりが驚いたのは彼が過去にそういう仕事をしていたことではなくて、それに対するファンの反響だった。もちろんそんなことは気にしないと応援し続けたファンも大勢いたが、中にはそんないかがわしいことするなんて許せない、嫌いになった、といって離れていくファンもいた。実際に作品を観たわけでもないのに。
もうびっくり仰天である。
演技でエッチなことをするのがそんなに悪いことなら、世間の大概の女はみんな犯罪者じゃないのか。ベッドで演技したことがない女なんかまず現実にいないだろう。
大体、映像の中で俳優がセックスやそれに近いことをするのは、それが彼らにとって「仕事」だからだ。「ビジネス」だからだ。彼らがカメラの前で肌を見せたりパートナーでもない他人と触れあったりするのは、彼らが「プロ」だからだ。
それのどこがそれほど悪いことなのか。

ぐりは仕事で何度かそういう作品の撮影に参加したことがあるけど、アレって本当に苛酷なもんなんだよね。
体力も使うしテクニックだってセンスだって要求される。ただ裸になればいいってもんじゃない。ぐりが立ち会ったある現場は、10数人のクルーがいるスタジオに「もっと腰振れよ!」「声が小せえよ!」「顔あげろ!」などと監督の厳しい怒号が飛び交うという状況での濡れ場撮影だった。真夏だというのに音がマイクに入るので空調は入れられず、声が外に漏れると近所迷惑なので窓も閉めっきり。狭い空間に大人数がひしめいていて、おまけにスモークを焚いていたのでほとんど蒸し風呂のような暑さ。もちろんカットがかかるたびにローブを着せたり扇子で扇いだり多少のフォローはするけど、前貼りをしている(=トイレに行けない)ので水分補給はできない。リハーサルが始まってから全カット撮り終わるまで4時間ほどもかかった。
それほど苛酷でも出演者は決して「NO」とはいえない。やりぬく以外に仕事を終わらせる方法はない。現にぐりはこれまでにそういった演技を拒否した俳優には遭ったことがない。台本にそのシーンが書いてあって、一旦出演を決めたらあとは何があっても俳優自身の責任になるし、みんなきちんと責任は果たす。だって仕事だから。プロだから。

世の中には、他人の前でおっぱいやらちんちんやら出して働く人間はそれだけで蔑んでいい、と考える人間がたくさんいる。ほんとうにたくさんいる。
でもそういう人にぐりはひとこといいたい。
じゃあアンタもやってみれば。できるもんならやってみなさいよ、と。
いいたいことはやることやってからいうべきでしょう。できもしないのに、実情を知りもしないのに、テキトーに思いこみで職業を差別するのはおかしい。
大体、そーゆー人間に限って、AVやポルノが幻想であって現実じゃないってことがわかってなかったりするんだよね。

なんてなことを、最近つらつらと考えさせられることがあったのでした。ハイ。

金の話

2008年04月13日 | movie
『王妃の紋章』

1933年に発表され、中国ではしばしば上演されていて過去にも何度か映画化されている戯曲『雷雨』(曹禺ツァオ・ユイ著)を原作とする時代劇アクション。
武力で国を制圧した皇帝(周潤發チョウ・ユンファ)は政略結婚で二度めの妻(鞏俐コン・リー)を娶るが、以来10数年が過ぎてふたりの間はすっかりひえきっており、皇后は前妻の息子である皇太子元祥(劉燁リウ・イエ)と不倫の恋に溺れている。そんな彼女に皇帝は毎日毒を盛り、皇后は毒と知りつつ黙って服薬し続けていた。重陽の節句にある陰謀を決行すべく計画を練りながら・・・。
まーーーーーーとにかく、豪華。衣装もセットもひたすらキンキラキン。そしてすべてがハンパなくデカイ&多い。宮殿がデカけりゃ食卓もデカい、菊の花も多けりゃ兵士も多い。そーゆー意味でもとっても中国的。色彩感覚やスケール感があまりに中国的なので、中国文化に馴染みのないヒトはちょっとひいちゃうかもです。あ、でもここまでやりきってたら逆に、これはこーゆーファンタジーとして受け入れやすいかも。

ぐりはべつに張藝謀(チャン・イーモウ)ファンではないし、製作費50億円の巨編だからとかオールスターキャストだからとか本国で大ヒットしたからとか、そーゆーことではあんまし映画に期待したりはしないので、これはこれでふつうに楽しめたんだけど、まあ好き嫌いは分かれる作品ではあると思います。
やっぱりねえ、シナリオの完成度がちょっと・・・うーん。もともと家庭内の閉ざされた人間関係の中での話だった原作を無理矢理に王朝絵巻にしてあるので、合戦シーンとかアクションパートが物語から浮き上がって見えるんだよね。なんかあんまし必然性がないとゆーか。
あと物凄く気になったのがライティング。衣装やセットがケバいのにはとくに文句はない。日本だって欧米だって、宮殿や教会などの巨大建築物はみんな権力の象徴だったから本来は極彩色のキンキラキンだったはずで、それに現代人が違和感を感じるのは実際に目にする現物がボロくなってキンキラキンじゃなくなってるから、というだけの話である。でも電気照明のない時代の話なのに、一日中あそこまでガンガンビカビカにライティングせにゃいかん理由はよくわからない。画面の彩度が高すぎて目が疲れるし、大体画面構成として散漫になりやすい。どこ観ていいのかわかりにくい。時報のシーンが定期的に出てくるのになぜ常に同じライティングなのか、せっかくだから時刻にあわせて太陽の位置や明度を変えるくらいの演出があってもいいと思うんだけど。
それと音楽がやたらうるさいのも気になり。もっと自信もって仕上げりゃこんなにBGMいらんハズでしょ。
キャスティングは周杰倫(ジェイ・チョウ)以外(爆)はたいへんすばらしかった。ジェイに才能がないとかゆーつもりはないが、本格的な訓練を受けた大陸俳優や超大ベテラン映画スターに囲まれるとどーしても硬さが目立つし、やっぱし中世の皇子とかそーゆーキャラはイマイチうまくハマってるよーにはみえず。劉燁は毎度ながらスゴイんだけどね。もうぶっちぎりのヘタレっぷりがむしろ天晴れとでもいいますかー。新人の李曼(リー・マン)と秦俊杰(チン・ジュンジェ)はかなりよかったです。将来が楽しみやね。

物語自体が非常におもしろかったので、機会があれば原作を読んでみたいです。
例によって映画館はチョー空いてましたが(爆)、コレおっぱい好きな男性の方には是非ともオススメな作品ですよ(笑)。出てくる女性出演者全員が、見事な爆乳ぷりぷり半出しでがむばっておられます。あそこまでいっぱいおっぱい出て来たらそらもう壮観でございますよー。ははははは。
それと、某所でこの映画のCGがチープだとゆーレビューを書かれてた評論家さんがおられましたが、この映画CGはほとんど使ってないはずです。メイキングをみれば一目瞭然だけど、あの巨大セットも大軍勢エキストラもみーんな実写。カメラワークに全然芸がなかったからねー。クレーンとか使ったダイナミックなフライスルーとかあるかと思ってたんだけど。実写も撮り方によってはウソくさくなってしまうといういい見本(?)ですな。

金の話

2008年04月13日 | movie
『フィクサー』
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マイケル(ジョージ・クルーニー)は大手弁護士事務所に勤務する“もみ消し屋=フィクサー”。離婚を経験し、レストラン経営に失敗したうえギャンブル中毒で、弁護士といえどもキャリアの上でも経済的にも余裕のない45歳。あるとき同僚弁護士のアーサー(トム・ウィルキンソン)が裁判で突如奇行に及んで逮捕されてしまい、事後処理を命じられる。アーサーは農薬による健康被害で3000億円もの損害賠償を求められた企業を6年間弁護していたのだが、その間に原告側の主張の正当性に気づき、刑事告訴に必要な証拠を集め始めていた。
アカデミー賞で助演女優賞を受賞したティルダ・スウィントンは被告である農薬メーカーの法律処理担当・カレン役。

ある種の法廷モノだが裁判のシーンはないし、主演のジョージ・クルーニーはフィクサー役という設定だが、フィクサーとして実際に仕事をするシーンもない。
物語の主軸は主人公やアーサーが大企業の不正を暴くという正義の主張なのだが、映画にはわかりやすいいわゆる“正義の味方”的キャラクターもいない。登場人物のほとんどが、常にカネのことを考えている。冒頭のシーンで轢逃げ事故を起した大口顧客(デニス・オヘア)のシーンが如実にそれを物語る。彼はハナから自分の犯した罪の重さなどいっさい考えていない。考えているのはとにかく一刻も早くその罪から逃れることだけで、かつそれが当然、その権利が自分にあって当たり前としか考えていない。カネと権力を持つ者の傲慢と心の貧しさを象徴的にデフォルメした場面である。

映画には“正義の味方”は出てこないけれど、それに代るキャラクターとして登場するのがマイケルの息子ヘンリー(オースティン・ウィリアムズ)である。利発だがまだ小学生の幼い男の子の彼に、マイケルは父として希望と強く生きていく勇気を教えようとする。父子のやりとりは非常にストレートで、それだけを聞いていると非現実的な綺麗事のように感じてしまうのだが、その他のパートではさんざっぱらカネカネカネカネカネの大合唱なので、観客のアタマをクールダウンさせるにはちょうどいいアクセントになっている。

マイケルもアーサーもカレンも、法律とカネの力で状況を思い通りにコントロールすることを生業としているのだが、3人ともがそのことで自分を見失い、危うく崩れかけた人生をよろよろと生きている。優秀なやり手弁護士や大企業の幹部といった特殊なエリート性は、彼らを苦しめはしても助けはしない。それが彼ら自ら選んだ生き方であるにもかかわらず。
訴訟が産業化して久しいアメリカ社会を強烈に皮肉った物語でもあるのだが、物語の病み方が若干重すぎるような気もしました。けっこう小難しい台詞が多いわりにそれ以外のパートの台詞はイマイチ平凡で、シーンやパートによって会話の完成度にバラツキがあって、なんとなく全体的にバランスがもうひとつとれてないような感じはしましたです。
しかしジョジクルやティルダをみていると、人間の美しさってほんとうに複雑なものだなとしみじみ感じる。ふたりとも役づくりのためもあって、外見的にはわざと“ブラッシュ・ダウン(?とゆーのかな?)”してあるのに、それでもきっちりかっこいい。かっこいい人は何をやってもかっこいいってことなのかなー。

約束された場所で

2008年04月06日 | movie
『パレスチナ1948 NAKBA』

ジャーナリスト広河隆一が40年間にわたって記録したパレスチナ・イスラエル問題を、パレスチナ難民問題を中心にして描いたドキュメンタリー。
広河氏は大学卒業後の1967年にイスラエルに渡り、キブツと呼ばれる共同農場でボランティアとして働きながらヘブライ語を学んだ。ある日、彼はキブツの周りで廃墟と思しきものをみつけ、後にそれがダリアトルーハというパレスチナ人の村だったことを知る。
いっしょに働いていたイスラエル人たちの多くは子どもの頃にホロコーストを体験した人々だった。だがそのイスラエル人が、パレスチナ人が暮していた筈の土地を占拠している事実に、若い広河氏は衝撃を受けた。以後、彼はダリアトルーハ村の難民たちを捜しながら、イスラエルと周辺各国に散らばったパレスチナ難民を訪ね歩き、インタビューを続けた。

インタビューに登場するのはパレスチナ難民ばかりではない。
広河氏はキブツダリアを出た後、共産党を脱退した反シオニズム主義のイスラエル人団体「マツペン」に参加するのだが、その当時のメンバーで現在は弁護士や大学教授、歴史学者など知的階級の立場から政治活動を続けているイスラエル人たちも登場する。彼らは勿論、イスラエルの対パレスチナ政策には反対している。だが一般のイスラエル人だって平和を望んでいる。中には「イスラエルは神に約束された土地だ」といい張る右翼もいる。そーゆーのはどこの国にだっている。セツナイことに。けど大概の一般庶民は、殺しあいなんか望んではいない。平和に物事解決するんなら手段なんていくらも考えられるはずだと思っている。
この映画をみればみるほど、なぜイスラエルがこれほどまでに武力弾圧にこだわるのかがどんどんわからなくなる。世界中で差別され、虐げられ、家を故郷を追われ続けたイスラエル人が、どうして、なぜ、パレスチナ人に同じ仕打ちができるのだろう。
わからない。

劇中に登場するイスラエル在住のパレスチナ人がいう。
世界中の人たちがホロコーストには興味を持って語りあうのに、どうしてパレスチナ人の悲劇はみんなウソだといわれるの?と。
イスラエル人歴史家がいう。
自分はただ歴史を明らかにしたくて虐殺の事実を調べただけなのに、イスラエル人はみんな「どうして国の誇りを傷つけるような真似をするのか」と非難する、と。
パレスチナの問題だけじゃない。古今東西、すべての歴史は勝てば官軍、権力に都合のいいようにねじ曲げられて伝えられて来た。パレスチナ人がどこでどれだけ苦しめられていても、国際世論で真剣に問題視されることはあまりない。ニュースを賑わすのはいつも自爆テロだ。それが権力に都合がいいからだ。
映画では、占領がパレスチナ人の抵抗を生み、抵抗が弾圧を生み、弾圧が抵抗を激しくし、激しい抵抗がさらに激しい弾圧を生むといっている。つまりは占領が諸悪の根源なのだという。とはいってもイスラエルが建国されて60年、今さらはいどうぞと土地を返せるわけもない。でも他に解決策がないわけもないだろうと思う。ひとつだけいえることは、いつまでも殺しあいを続けているわけにはいかないということだ。そんなことやってたって何にも解決しない。

不寛容と無理解の地獄のスパイラルを、これほど明解に個人感情のレベルで表現したドキュメンタリーも珍しいのではないかと思う。
ぐり個人としては、この映画を単なるイスラエル・パレスチナ問題だけにとどまらず、世界中の侵略と暴力のひとつの例として観てほしいという気持ちはある。

関連作品:
『パラダイス・ナウ』
『ビリン・闘いの村』
『ミュンヘン』(原作:『標的は11人─モサド暗殺チームの記録』

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