イノシン被害の全国放映ばかりでは、なさそうです。
NHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯❗」という番組にて、百島(尾道)が登場。
9月19日、全国放送予定です。
尚、NHKさんとしては、事前の番組内容、写真等のSNS投稿は、控えて欲しいとの事。
百島は、故郷という以上に、何かを教えてくれる先生のような島です。
百会倶楽部です。
中国新聞の記事に、尾道市旧百島支所に関しての記載がありました。
(中国新聞より抜粋)
国の文化審議会が登録有形文化財に22日答申した旧尾道市役所百島支所庁舎(広島県尾道市百島町)は、支所廃止後も含め半世紀以上にわたり離島の百島の住民に親しまれてきた拠点だ。
百島遺産として、今後百年以上遺して欲しい建物です。
さて、どのように長期保存管理するのでしょうか?
国が、維持管理していただけるという事なのかな?
山梨県南アルプス市百々(どうどう)に参りました。
東には富士山、北には八ヶ岳、西には日本で2番目高い北岳、3番目に高い間の岳が見渡せる南アルプス市。
南アルプスの市木は桃、桃の生産量は日本一だとの事。
桃源郷マラソン大会も開催する南アルプス市。
コンセプトは「自然と文化が調和した幸せ創造都市」。
平成26年6月には、南アルプス市はユネスコエコパークに登録されています。
さて、南アルプス市の百々地区。
さくらんぼ、桃やスモモの広大な栽培畑が広がり、その中に大きな屋敷が点在して、百々という地域は、豊かな地域に映りました。
桃泥棒も徘徊しているという事、やはり僕のような者が突然現れて散策していると、不審者に映るかもしれません。
とりあえず、百々公民館ヘ。
立派な公民館でした。
あいにく、どなたも常駐されていません。
ただ、百々という地域の誇り、由緒ある歴史の由来を大きな看板の表と裏にビッシリと書き込み紹介していました。
素晴らしいです❗
百、百々という地名を、いかに誇りとして愛着があるのか、愛郷無限の一言に尽きます❗
要約すると、明治以前には元々、百々を含めて62の集落、村が存在したようです。
合併、合併、また合併して現在の南アルプス市になったとの事。
百々は、中心的な位置にあったようです。
始まりの居住は平安時代、鎌倉時代に入ると、この地域は八田御牧として甲斐源氏の有力な軍馬の供給地となり、村落の形成も進んだとの事。
明治8年、百々、上八田の二村が合併して「百田村」が誕生。
その後、しばらく「百田村百々」は存続した後、現在、南アルプス市白根町百田(百々)となっています。
それまでの合併経緯は複雑で、南アルプス市の市制史によると、「巨摩町が誕生した昭和26年を境に以後3次にわたる合併を経て成立していきます。出発点ともいえる1次の合併は、昭和29年2月22日に源村が5カ町村合併案から外れ、巨摩、西野、百田、今諏訪の4カ町村の合併協議が成立したことを受け、昭和29年4月1日、この1町3村により白根町が誕生したとの事。」
白根町という名前は、住民になじみ深い南アルプスの白根三山(北岳、間の岳、農鳥岳)に由来しています。
そして、2003年(平成15年)4月1日に山梨県中巨摩郡八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の6町村が合併し、南アルプス市が誕生、今に至るとの事。
百々 ➡ 百田村 ➡ 白根町 ➡ 南アルプス市。
かつては、白根町百田は、今は、南アルプス市百々となっているのかな?
南アルプス市立白根百田小学校の住所表記は、南アルプス市百々です。
公民館の御近所の方に、百々の氏神様である神社を教えていただきました。
百々 諏訪神社。
地元出身の政治家、かつては、昭和の信玄公、政界のドンと呼ばれた金丸信氏による揮毫。
武田信玄は、諏訪大明神を軍神として信仰していたので、甲斐の国、山梨県にも諏訪神社が多いのは納得しますが、この神社は、所蔵品から鎌倉時代からではないかという説もあります。
この界隈には、平安時代の集落という百々遺跡がありますが、当時は、百々という地名はあり得ないと考えます。
看板にも記されている、江戸時代にまとめられた山梨の地誌『甲斐国志』によると、このように説明されています。
「本村ノ北御勅使川ニ望ム百々(ドンドン)ハ水ノ鳴ル音 北山筋(甲斐市敷島)ニ百々河・江戸ニ百々橋ノ類也」
百々は河川に近い場所で、水がドッと流れる音、様子を表しているとの事。
全国の百々には、同じような地域由来の説明が残ります。
つまり、百々という地名は、室町時代嘉吉の乱前後に、ほぼ全国同時に生まれたと推測できるのです。
赤松一門と京極一門、それぞれの一門での家督争い、内紛闘争は複雑ですが、赤松と京極は何かで繋がっているような気がします。
今日は、百と百々に関わるお話です。
滋賀県彦根市に佐和山城という歴史に名が残る山城がありました。
関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた将、石田三成の居城です。
その後、徳川四天王のひとりである井伊直政が入城し、彦根城(現、国宝)を築いたため佐和山は廃城となりました。
その関ヶ原の戦いから約160年昔の嘉吉年間(1441年~44年)に、その佐和山の麓(小野庄)に伊予の国(愛媛県)の豪族(河野水軍)である百々盛通なる人物が移り住んだとのこと。
この百々盛通の母は、近江の守護大名京極家一族の娘という縁で、小野庄百々村を賜ったとのこと。
同じく嘉吉年間といえば、時の足利将軍を暗殺(嘉吉の乱)を引き起こした赤松一党が、百島へ逃げて来た時期と一致しています。
偶然か、必然か、逃れた島は、その後、百島と名付けられたのでは?と
さて、京極は、赤松、山名、一色と同じく、室町幕府四識・・・嘉吉の乱(1441年)のあと、京極宗家と赤松宗家は、何らかの密約があったのではないかと、個人的な想像を膨らませているのです。
河野水軍と村上水軍の結びつきは強く、嘉吉の乱の際に百島まで逃げ延びた赤松一党、その代わりに百々一党が、交換条件で瀬戸内海から琵琶湖のある近江の佐和山へ移り住んだ・・・この地域は、鎌倉時代から畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり 、百々一党は、応仁の乱には、摺針峠に置かれた関所を守ったという・・・河野水軍であれば、手慣れた任務だったかもしれません。
因みに、嘉吉の乱のあと、京の都では、応仁の乱が起こります。
その最大の戦場となった場所は、百々橋(上京区)です。
安土城にも百々橋口という登城ルートがあります。
ところで、その後、伊予から近江に移った百々一族の歴史は、京極、六角、浅井、信長、秀吉、徳川まで主君を変えながらも滅亡することもなく、戦国の世、覇権時代に翻弄されながらも生き延びて、現在まで引き継がれているのです。
この近江界隈(現在の滋賀県、三重県、奈良県の県境)には、伊賀一族、甲賀一族、柳生一族も蠢いていました。
その殺人集団に伍して、百々一族は、踏ん張らなければならなかったのか?
あるいは、百人衆という影響を与えたかもしれません。
もっと、百々一族に歴史にスポットライトをあてて注目されてもよいのでは?
歴史の詳細は省きますが、ひょっとすると、百田とか百瀬とか、百のつく姓、苗字のルーツは、百々がルーツになっているのではと、憶測するのです。
百々氏という名の源は、地名なのか、水の流れなのかどうか?・・・よく分かりません。
が、百島と名付けた人物は、百々一族の者ではないかとも考えます。
さらに、1548年(天文17)、京極秀綱の子として京極綱家なる人物が誕生。
この人物、近江の百々村に居を構えて、百々氏と名乗るようになりました。
京極家からも分家として、百々家へシフト。
百々綱家(越前守)なる人物、築城の名手、「穴太衆(あのうしゅう)」のような石工集団を率いていたとも言われています。
(「穴太衆(あのうしゅう)」のルーツは、6~7世紀頃、百済からの渡来人とも言われ、室町時代には近江の国で石組み技術に卓越していた石工集団の事。)
この百々越前守なる人物、織田信長から徳川家康の時代まで尋常ではない生き様です。
サバイバルのような不思議な生涯に感心します。
百々越前守、朝鮮出兵にも加わったとのこと。
(朝鮮出兵には、百島の村上高吉も小早川家臣として出兵。)
最後は山内一豊の家臣として、土佐に移り住んでいます。
高知には、越前町という地名が残っているとのこと。
因みに幕末の土佐藩参政吉田東洋は、百々越前守の子孫となります。
余談ですが、時代を遡れば、足利軍が、新田義貞を討つために越前まで河野水軍を使ったとのことで、その子孫は越前に移り住んだとのこと、実際、「河野村(現、南越前町)」というのが実在します。
つまり、室町時代初期には、近江(琵琶湖)の東国、北國への重要な関所には、すでに伊予の国の河野水軍を配置していたのではないかと考えるのです。
わが故郷、百島は、伊予の国から、備後の国へ抜ける最前線の地でもありました。
子供の頃、百島の十文字山の頂上の岩の中に、仏像があったということで、その仏像を調べると、滋賀県に関係があったということでした。
北近江には、百済寺があります。
百島の百は、百済の百とも関係があるんだとも聞いた記憶もあります。
当時、百々一族のことを知っておれば・・・という想いもあります。
この百々一族のルーツは瀬戸内海、興味深い百々の物語です。
京都、北区鷹峰を散策しました。
鷹峯と言えば、学校の教科書にも登場する本阿弥光悦、その人が暮らし、ここに眠る日蓮宗光悦寺。
そして、光悦寺から僅か百メートル程離れている曹洞宗「源光庵(げんこうあん)」
本堂の中にある「悟りの窓」と名付けられた丸窓と、「迷いの窓」と名付けられた四角窓が、つとに有名です。
悟りの窓の円型は「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表示。
迷いの窓の角型は「人間の生涯」を表し、生老病死の四苦八苦、つまり生と死、または病気などの辛い感情を表示しているとの由。
残念ながら、源光庵は庫裏改修工事のため拝観を長期休止中、拝観再開は来春予定との事でした。
(写真提供:京都府観光連盟)
44年ぶりの鷹峯散策でした。
京都市北区鷹峯・・京都中心部からかなり外れに位置しますが、かつては丹波の国方面への始発地のような場所でした。
それが、丹波に続くこの古道長坂道の降り口です。
(余談ですが、丹波地方の方言は、百島の言葉と似ています。)
四季育む宿「然林房」の傍らに急坂の古道が、東海自然道として残っています。
この宿の朝食は、44年経っても変わる事なく美味です。
さて、光悦寺の表と裏の一対の参道出入口です。
本阿弥光悦のお墓です。
江戸時代初期、この鷹峯に移住して、今風に言えば、鷹峯を芸術村にしたという人物でもあります。
境内からの京都市街地の眺めも好いです。
船岡山も見えます。
鷹ヶ峯、鷲ヶ峰、天ヶ峰(桃山)の三山・・よく見えませんでした。
ところで、現在の茶道の祖となる千利休という名前。
利休とは、「名誉も利益も求めない(名利共に休す)」という禅語の意味合いとなるようです。
ある日、利休は、天の声?神様?仏様から「千の幸福を授けよう」と言われました。
利休は、「千の幸福など求めません。百の幸福で十分です」と言ったとか?言わなかったとか?
百利休ではなく、千利休となった謂れは分かりません。
応仁の乱の際、京都は荒廃して大徳寺の山門再建努力したのが一休和尚、二階部分を千利休が行ったとの事。
その事で千利休は切腹する運命となります。
余談ですが、日本の禅宗に大きな影響を与えたのが、中国の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師の言葉で「一日不作、一日不食」。
「一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず」と読みます。
働かざる者、食うべからず・・かな⁉️
うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ (良寛和尚)
今回の百々と鷹峯散策、とても楽しく懐かしく、ひと休み(一休)出来た時間となりました。
京都の朝は、道端の掃き掃除から始まるのでしょう。
朝掃除のはやい街は活気があります。
京都の百々町に参りました。
百々町の謂われ等が記されています。
室町時代末期、応仁の乱では最大激戦地となったと記しています。
現在、表千家会館の本部ビル、お隣には「人形寺」とも呼ばれる宝鏡寺(旧百々御所)が構えています。
小さな庶民的な町並みですが、その一方で敷居の高い雰囲気も併せ持つ界隈です。
茶道具やら着物関連のお店が多く見受けられまする。
その頂点となるのが、表千家を代表する「不審菴(ふしんあん)」。
表千家、裏千家の説明を省きますが、千利休の千家流茶道の本家として表千家を確立させた場所です。
敷居が高いなぁ❗
近くにある妙顕寺、色鮮やかな秋風景です。
帰り道、百万遍へと向かう途中の賀茂大橋から眺める大文字山(如意ヶ岳)。
いつも、百島の十文字山と似ていると考えてしまいます。
昨日、10数年ぶりに安土城址まで参りました。
当時は、まだ観光地として復古区画整理中で受け付け口もなく、入場無料で石段を上がりました。
駐車場も大手道の直ぐ下にあった記憶があります。
かつて、安土城への登城ルートは4ルートがあったとの事。
七曲口道と搦手道は廃道となり、今残るのは、大手道と百々道のみだとの事。
今は観光地として、大手道口が正面口となっていますが、信長が生きていた頃、本来の安土城の正門は百々橋口ではないかという事です。
この事に関して、前回安土城を訪ねた時には、興味が無かったせいか、安土城に百々橋口があり、そこから天守に上る登城道があったという事にも全く気がつきもしませんでした。
これに気がついた(教えられた)のは、昨年同じく近江八幡市の百々(もも)神社参拝した際、宮司さんから聞いた話。
昔は百々(どど)神社という名称だったが、安土城の正門に「百々」が名付けられたので、織田信長に遠慮して、百々(どど)から百々(もも)に名称を代えたという歴史の裏話でした。
さて、昨日は、ほんとうに好天、安土町界隈は散策には絶好日和でした。
現在の安土城跡の正門入り口は、大手道の石段階段。
その石段の両側に秀吉やら前田利家等の家臣の家族が暮らす屋敷が立ち並んでいたとの事。
その大手道から、西側に約500メートルに百々橋口道の入口の石段があります。
大手道と百々道の中間には、南山裾帯郭の虎口(みなみやますそおびくるわのこくち)。
ここは大手道と百々道の両方を見渡せる物見櫓があったとの事。
ここは物資やら大勢の家来の出入口ではなかったのかと想像します。
さらに歩を進めると、百々橋口です。
そして、天主閣に続く石段です。
どう考えても、ここは琵琶湖から最も近い船着き場でもあり、京の都へ上がるのも下るのも安土城の玄関口に当たります。
織田信長は、安土城の天主閣へ迎え入れる天皇行幸を考えていたとも伝わっています。
それにしても、信長は何故、ここを百々と名付けたのか?
個人的な憶測ですが、この時代を歴史上の後付けで「安土桃山時代」と呼んでいます。
しかし、当時の信長にしてみれば、戦国の世は、応仁の乱の続きであったのでしょう。
応仁の乱の勃発地、最大の激戦地と伝わる地点が、京の百々橋(現在、京都市上京区百々町)なのです。
その地点を治めて終息させたという自負が、天下布武をモットーとする信長の考えにあったのかもしれません。
信長の世のあと、秀吉はどうも「百」を避けて「桃」を重用したような雰囲気を感じます。
それにしても、安土城の石垣跡は「世の流れ」を考えさせられる迫力があります。
「良寛和尚さんみたいな人間になれたら、いいなぁ。」と言ったのは、中学校の社会科の先生だったかな?
北陸道下りの敦賀の杉津(すいづ)PA~の眺めは、いいなぁ。
良寛さん、備中から越後の国へ戻るまで、当然の如く托鉢しながら諸国行脚しています。
ここ敦賀も通り過ぎたのかな?
曹洞宗大本山永平寺に関しても、越前の国に関しても、何も語らず避けています。
その理由は、多分、僧として価値観、仏教界への不満、そして越後の国の出雲崎の実家にあると思う。
その前に、余談ですが、先日の日曜日、NHK 「麒麟がくる」では、「越前敦賀の金ヶ崎の戦い」が描かれていました。
この金ヶ崎の戦いは、もっと注目を集めてもよいほど、歴史上大きな分岐点になったのです。
越前朝倉攻めに陣地を張った織田信長軍・・・そこに、朝倉、浅井両軍による挟み撃ち。
信長、織田家臣の重鎮、徳川家康、松永久秀、ここから大出世する豊臣秀吉、明智光秀も居て、歴史上のオールキャストが、あわや全滅となるような織田信長の逃げ戦だったのです。
殿(しんがり)を務めたのが、秀吉と光秀・・・この敦賀の地から、歴史上の天下獲りの歴史が、どんどんと変化していきます。
万が一、この時、朝倉浅井両軍が勝利していた場合でも、東からは東北の上杉、伊達、関東の武田、北条、西からは、中国の毛利、九州の島津が覇を競っていたと考えます。
ずっと戦国が続いて、地域別に独立国が生まれ、結局はスペイン、ポルトガルの西欧列強国のキリスト教布教に続いて、植民地化されていたかもしれません。
良寛さん、勿論、戦国時代の信長、秀吉、家康の天下獲りの話、本能寺の変のあと、秀吉が備中高松城から中国大返しという離れ技をして、明智光秀を討ち取った歴史も学んだはず。
そして、徳川幕府の時代になって平和な世になったものの、異教禁止、鎖国制度、身分差別制度の確立。
そんな徳川政権の江戸時代末期、越後の国に生まれた良寛さん、何を生きる指標にしたのかなぁ?
良寛さん、22歳から34歳頃まで、玉島の円通寺で修業中、その間、実家のある出雲崎では、越前敦賀から越後出雲崎に移り住んだ新興商人「敦賀屋」が競争相手となり進出拡大、出雲崎で一番の商家であった実家橘屋は没落。
良寛さんの父親は自殺、家督を継いだ弟もいろいろありました。
越後に戻った良寛さん、持ち寺のない托鉢のみで、清貧に生きています。
あの新潟県分水町の国上山の五合庵での20年、さらに10年、30年にも及ぶ山中生活・・・自信があったのでしょう。
良寛さん、現代風の云えば、フーテンの寅さんのようにおどけた人間にも映りますが、世相への冷徹な観察力、抜群の記憶力と集中力を備えていました。
良寛さんの深い人生観、社会観、宗教観は、時代、国を越えた世界に通用するものがあります。
対君君不語
不語意悠哉
良寛和尚を想う。
良寛さんを想うと、元気になる。
良寛さんの魂❗
岡山県倉敷市玉島にある円通寺を参詣。
円通寺の美しい境内、円通寺公園からの美しい景色、良寛さんが修行した曹洞宗の禅寺として観光地化しています。
良寛さんが修行されていた頃の円通寺は、柏島という小さな離島にありました。
倉敷市街地方向のこの界隈は、すべて海の中でした。
小舟で行き交うという交通不便だったという印象は、間違いです。
江戸時代には、舟というのは現代の車以上の移動手段としての価値がありました。
良寛さんの修行の地という事で、全国的にも有名な円通寺です。
昨年の同時期に、良寛さんの故郷越後(新潟県)まで足を伸ばしました。
玉島の円通寺、ここは、良寛さんにとって厳しい修業の地であったと伝えます。
僕のような俗な人間の感想として、良寛さん、ここは、心のパラダイス、桃源郷、極楽のような、今で言うならば、海外遊学、ハワイで暮らしているような修業感覚だったのではと想像しています。
良寛さんの懐かしい故郷出雲崎は、目の前は日本海、うっすらと大きな島影の佐渡島、冬には毎日鉛色の空模様、雪吹雪、荒々しい風、浪の音・・・良寛さんの心象風景です。
それに比べて、玉島の風景は、別世界、日々晴れ渡り、瀬戸内海はさざ波が輝いて、小さな島があちらこちらに浮かんで、その間を小舟が行き交う・・・良寛さんの異なる心象風景です。
良寛さん、22歳から34歳ぐらいまで、この円通寺での長い修業期間の身であったこと。
ほんとうは、玉島で、もっと長く暮らしたかったのではないかなぁ?
されど、良寛さんは、美しい風景の中での生活、暮らしを営むにも、不公平、不幸な人間が多く暮らしている矛盾、現実を、仏僧、禅師、和尚として身に沁みたのではないのかなぁ?
真面目に生きても変えられない身分差別、お墓、戒名まで異なる仏の世界でした。
良寛さんは、円通寺での悟ったこと書き遺しています。
自来円通寺
幾度経冬春
・・・・・
・
・・・・・
僧可可清貧
良寛さんの自戒の根本は、「清貧」であるべきだとして、生涯貫いたのです。
円通寺住職であり師である大忍国仙和尚を、後年、弟子であったことを誇りとしました。
師である国仙和尚の死の翌年、良寛さんは、諸国行脚ののち、故郷の越後に戻ります。
因みに、良寛さんは、百々という地名に懐かしさを覚えたかもしれません。
玉島の百々の近くは、春になれば今も「桃の花」が広がる美しい樹園が広がります。
玉島六島だった江戸時代は、どうだったのかなぁ?
良寛さんの故郷越後にも、百々という地域があるのです。
現在の上越市、妙高市にあり、今は上百々、下百々となっていますが、何故か、良寛さんの晩年の愛弟子貞心尼を連想します。
良寛さんの越後での後半生、彼の心の支えは、瀬戸内海の風景、国仙和尚の教え、そして「清貧」、そして、貞心尼との交流だったと思います。
去年痴僧今又来
袖裏 毬子値千金
一二三四五六七
良寛さんと童の遊んでいる声が聞こえてくるような気がしました。
良寛さんは知っているのです。
貧しい村の子らは、売られていくということを。
良寛さんは、円通寺で号「大愚」を授けられました。
桃花如霞挟岸発
今、大愚良寛禅師は、禅寺ではなくて念仏寺で眠っています。
曹洞宗大本山永平寺のある越前(福井県)の国を語ることを避けた良寛さん。
始まりは越後から、良寛さんに導かれた僕の百々巡りです。
備中玉島円通寺の宿泊施設良寛荘からの風景です。
良寛さん、越後も越前も、備中も備後もええ所です。
倉敷市玉島にある百々(どうどう)地区は、山陽自動車道玉島ICを降りて、すぐ近くに位置します。
中国能力開発大学のグランドの隣りにあり、玉島ICからでも、歩いても行ける近い距離にあります。
真ん前の小高い山には、くらしき作陽大学、作陽音楽短大もあり、新幹線の新倉敷駅にも近い位置にあるのが、倉敷市玉島の百々です。
つまり、今まで訪ねた百々の中で、一番、「百」らしくない特徴のない宅地造成地になっていました。
百々公会堂という集会場の建物がありました。
不審者を見つけたら、110番通報します!(百々町内会)の案内板が張り付いていました。
それでも、昔の名残りだと思うのですが、百々という地域の誇りが垣間見えます。
百々への入り口に石柱が立っています。
その石柱を通り過ぎる向こう側から、百々地区です。
大正時代の十一月一日の刻印が見えます。
ここの百々地区は、新幹線の新倉敷駅、山陽道の玉島ICが開通してから、学校や企業の進出もあり、この界隈は大きく変容したとのことです。
それでも、「百」という残存エネルギーが微かに残っている地域でした。
感想コメントは、これぐらいです。
江戸時代までは、この界隈は、海辺の近かったのかもしれません。
あの良寛さんも、この界隈から舟に乗り、柏島の円通寺まで行ったのかと想像しながら、円通寺に向かいました。
美咲町百々(どうどう)に参りました。
この地域は、ちょっと分かりにくい住所になっています。
北和気路案内マップ・・・百々の地区範囲がよく分からないのです。
とりあえず、後醍醐天皇ゆかりの大宮神社に参詣しました。
とても清々しくなる神社でした。
宮司、瀧本さん宅に伺い、少しの時間、お話を聞かせていただきました。
病伏せるお身の上、申し訳なく、百々、大宮神社の由緒等々、お聞きしました。
奥様からも、いろいろと教えいただきました。
以前は、百々地区には百世帯ほどあったが、今は90世帯ぐらいとのこと。
鎌倉時代末期、この百々の地に後醍醐天皇が隠岐の島に流される途中に立ち寄ったとのこと。
(参考までに、鎌倉時代初期、承久の乱に敗れ、隠岐の島流刑になったのは後鳥羽上皇。隠岐の島は後鳥羽上皇の終焉の地となったが、後醍醐天皇は隠岐の島から帰還して鎌倉幕府を倒した。)
百敷に行き交じる人々の歴史模様がありました。
遠い古を思い出すような長閑な時間を過ごすことが出来ました。
感謝です。
百々(どうどう)に、百(もも)を見つけた地域でした。
美咲町百々・・・また、いつか。
さて、美咲町から、国道52号、53号を走り、岡山IC経由、倉敷市玉島の百々へ。
そして、良寛さんが居た円通寺までの約2時間の楽しいドライブでした。
良寛さんと円通寺のことを書くまえに、津山市加茂町にある「サムハラ神社 奥の宮」について書きます。
サムハラ(𪮷〓𪮷𪮇)神社・・・難しい文字で、漢字ではなく神文字だとのことです。
「神様に呼ばれた人だけが行ける神社」ということですが、今の時代はネットの時代、地元加茂町の方、観光協会、トラベルブックの情報源から誰でも行けるはずです。
祭神は、祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神。
つまり、伊勢神宮の天照大神の親神様だとのこと・・・世界唯一の宇宙一の神様ということ?
帰宅後、ネット検索すると、この超絶なパワースポットには驚かされました。
あの斎藤一人さんも、天之御中主神を信心しているとか。
是非、ここに集う皆様、是非共、ネット検索してください。
そして、もし「サムハラ神社奥の宮」を参拝しようと思うならば、僕のブログを参考してくだされば有難いです。
百々橋ならぬ百々参拝道です。
そう、このサムハラ神社が鎮座されているのは、日詰山という素晴らしく「百」に近い名のお山の名前です。
「百」の表意文字の意味は、日を吊り上げ、吊り下げていますからね。
僕が、まったく偶然にサムハラ神社奥の院に参拝できたのは、百々を訪ねた御蔭様です。
さて、まったく新しい視点で、サムハラ神社に参拝、感謝です。
日詰山には、室町時代以前には、百々城が築かれていました。
その後、戦国時代には落合城が築城されて、その頃に、サムハラという神文字が石碑に刻まれているのを見つけたことで、古代からのサムハラ信仰が一気に広まったとのこと。
江戸時代には、金刀比羅宮が、この日詰山の分祀されたとのこと。
明治元年、日詰山の麓(百々)に生まれたのが田中富三郎翁、人生百年を全うします。
まだ、セーラーもパイロット万年筆も無い、百年昔。
故郷の百々を愛した田中富三郎翁は、百x百の萬年筆の先駆者として、大阪から全国普及に努めて財を成したとのこと。
そして、郷里の日詰山の古い祠を、大阪で「サムハラ神社」を私財で建立したとのこと。
と、簡単に説明しましたが、さて、日詰山への参詣記です。
まずは、金刀比羅宮へ参拝、隣りの「荒神社」の祠にも参拝。
ちょうど、ここの宮総代か、氏子さんが、神事の準備作業をしている最中でした。
僕は、何にも考えず、声掛けして、「百々」「百」の地を訪ねて、このサムハラ神社に偶然、参拝したことや、いつものように「百」の歴史観を話していると、どうも皆さん忙しいのか、煙たがっている雰囲気、全く興味を覚えていない様子でした。
はて・・?
ちょっと境内をひと巡りして、もう一度、彼らのもとに行き、質問しました。
田中富三郎さんは、百々出身ですよね? 「はい」という返答でした。
皆さんも、百々の方ですよね? 「いいえ、中原です」という返答。
そういえば、サムハラ神社の住所は、加茂町中原であり、加茂町百々ではないのです。
しかも、皆さんは、サムハラ神社の氏子さんではなくて、地元の氏神様、金刀比羅宮の氏子さんなのだと理解できました。
例えば、百島の福田地区の方に「福」の効用、意味、素晴らしさを説明すれば興味を示すでしょうが、百島の本村地区や泊地区の方に「福は素晴らしい」と説明しても、今ひとつという感覚です。
百福となれば、食品業界の革命となったインスタントラーメンを思い出します。
田中富三郎翁・・・サムハラ神社に、ちょっと「百」を付けて欲しかったなぁ。
百々地区で生まれ育った田中富三郎翁・・・目の前にある日詰山から上がる日の出を毎日眺めていたはずです。
僕は、偶然、百々地区から参拝して、その証を見つけました。
気になる石の小さな鳥居を見つけました。
柱石には、田中富三郎と刻印されていました。
おそらく、田中富三郎翁は、幼い頃から、この場所から日詰山を眺めて、山に登っていたのかなと想像できる位置にありました。
因みに、ネット検索すると、サムハラ神社の参拝路は、百々の側からすると日詰山の裏手の中原地区になりますが、ほとんど通らない百々からの参拝路が有難く思えました。
「サムハラ神社」の御蔭様、写真で拝むだけでも御利益があるとのこと。
サムハラ、サムハラと唱えるだけでも御利益ありとのこと。
全国から熱心な信仰者が、ここに集います。
サムハラ神社奥の宮です。
深く七拝、強く八拍手・・・サムハラ、感謝。
桃の国、晴れの国、岡山県の百々巡りをして参りました。
津山市、美咲町、そして、倉敷市玉島へ。
初めに、岡山県北東部に位置する津山市の百々(どうどう)まで出掛けて参りました。
中国自動車道津山IC で降りて、さらに北へ15~20キロほどの位置する加茂町(現、津山市)まで向かいました。
加茂町は、加茂川沿った美しい町でした。
地図を見ていると、やはり荒神山も青山もあります。
百々温泉の看板が見えたので、その指示通りに入ると、百々温泉は中原地区になっています。
その界隈をウロウロしていると、百々地区への道標を見つけました。
いつものように誰も歩いていないので、百々地区の集落をぐるりと廻って、二、三枚写真を撮って、次の美咲町の百々へ向かうつもりでした。
とりあえず、高い場所に上がって俯瞰するのがよいと考えて上がって行くと、一人百々地区の方が、偶然歩いていました。
お声掛けして、「日本中の「百」を巡るつもりです」と言うと、立ち話なのに盛り上がりました。
やはり、「百」への愛情に対して共感するのです。
この地域の会長も務めたこともあるという岡崎さん。
岡崎さんと・・・出会えて善かった!
僕が知る「百島」という地域性、歴史観、岡崎さんの「百々愛」と相通じるものがあるのです。
百という団結力、固い絆・・・そして、(隠れ砦の反対語の)隠さない砦、関所、軍の殿(しんがり)のような独特の歴史風土があるという共通認識です。
この百々には、源平の戦いの頃からの言い伝えが残っているとのこと。
寿永3年(1184年)、平敦盛を討ち取った源氏方の熊谷次郎直美、時に16か17歳の若武者だったとのこと。無常を感じた直美は出家して諸国を巡り、この地に立ち寄り、桜の杖を土に立てると根を張り、桜が咲いたとのこと。
・・・桃ではないのかなぁ?
別れ際に去ろうとすると、岡崎さんが一言。
「あの目に前にある山(日詰山)に、全国から人が来るんだよ」
よく聞いてみると、この百々出身で百歳まで生きた田中富三郎さんという方、大阪に出て財を成し、この百々から大阪に「サムハラ神社(現:西区立売堀)」を分祀、分霊したところ、現在は強力なパワースポットのような有名な存在地になっているとのこと。
岡崎さんのアドバイスの従い、帰り際、その奥の宮「サムハラ神社」に参詣しました。
吃驚仰天でした。
確かに、朝早くから、全国から参拝者が来られていました。
田中富三郎翁という伝説人物、サムハラ神社御参詣感想、等々は後日に。
別れ際、最後まで手を振ってくれた岡崎さんに感謝感激、拝。
さて次は、加茂町百々から、車で約1時間南下して、美咲町百々まで参りました。
これは、あくまでも個人的な見解です。
不思議なのは、青山と白山という名称が、「百」が付く地域の近くによくあること。
そして、「百」が付く地域は例外はありますが、何故か街中にはありません。
過疎地域ばかりです。
しかし、百という地域への独特の愛着、誇りなのでしょう。
余所者が現れると、他者を寄せつけないような警戒心が動きます。
昨日、愛知県伊良湖岬から、フェリーに乗って、三重県鳥羽へと渡りました。
正確に言えば、35年ぶりの乗船でした。
バイクに乗って、東京から伊勢まで取材仕事に行きました。
あの当時の若い頃は、有名地、歴史検証、景勝地ばかりが目に入り、「百の地」は、映りませんでした。
35年昔の自分を思い出しながら、昨日の帰りは、大阪経由で福井へと帰りました。
あべのハルカスという、今は日本一高い高層ビルを眺めても、何だろうな?
伊勢湾に浮かぶ神島を思い出していました。
そして、伊賀の国名張(神屋)にある百々の里。
・・・潮騒、胸騒ぎ。
海の水賊は、山に移り住み苦労したと思います。
山の山賊も、海に移り住み苦労したと思います。
瀬戸内海の海賊が畿内に移り棲んで、その子孫が山賊、忍者になった。
畿内の山賊が瀬戸内に移り棲んで、その子孫が海賊、船乗りになった。
百々を歩いて巡って、間違いないと考えます。
ただ、今更ながら高齢になって歴史検証も学習もしたくないというのが本音です。
楽しく「百の地」への観光巡りで好いかなぁ。
仮称「百敷行き交う小さき行路(本部:尾道市百島)」。