百島の軍殿山の北側の麓に、女男石(みょうといし)という岩があります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、瀬戸内海の島々からも、多くの男達が戦さに出兵しました。
桃島から出陣した男の一人が、加藤清正の軍に加わり、その清正軍の一部が、蔚山(うるさん)という土地に残りました。
そして、その男は、運悪く、そのまま蔚山で亡くなったとのこと。
ほかの桃島の男たちは運良く帰国しましたが、その男だけが帰らないので、妻は深く悲しみました。
そして、その妻は、陰暦七月十三日の夜半、夫を追いかけて、その岩から海に身を投げたようです。
それ以後、その岩を、女男石と呼ぶようになったとのこと。
また、毎年七月十三日の夜になると、波間の音が、女のすすり泣く声に変わるようです。
ところで、百島の最南端の泊地区には、だんご岩があります。
とてもシンプルな名勝地で、昭和の時代までは、ほんとうに団子が積み重なった形をしていました。
そこから、弘法大師 空海が、百島に上陸したという伝説があります。
そうなると、だんご岩のほうが、女男石よりも歴史的に古くなります。
百島の南北にある・・不思議なパワーストーンの伝説話でした。
因みに、百島が、桃島だった頃・・桃島二島(磯島と五十島)、浦崎二島,戸崎一島、田島三島、横島、加島、向島数島、さらに礁も多く、あの界隈の島々を総称して百島と呼ばれていたようで、その真ん中にあった桃島が、そのまま文字代表して百島とも呼ぶようになったかもしれません。(沼隈郡誌を参照再考しました。)
さらに、沼隈郡誌を読んでいると、大変興味深いことを発見できます。
近隣の地域や他島の生活、人柄等々を・・怠け者などとストレートに批判揶揄した紹介を記載されており、現在では人権侵害、侮辱罪で裁判沙汰になるかのような過激な表現もあります。
しかし、百島に関しては、非常に高く評価されています。
百島の人々に関しても、大変人柄もよく、勤勉であることを紹介しているのです。
今、考えるのは、日本全国に散らばる「百島」という苗字(姓)を持つ方々のタイアップが面白いかもしれません。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、瀬戸内海の島々からも、多くの男達が戦さに出兵しました。
桃島から出陣した男の一人が、加藤清正の軍に加わり、その清正軍の一部が、蔚山(うるさん)という土地に残りました。
そして、その男は、運悪く、そのまま蔚山で亡くなったとのこと。
ほかの桃島の男たちは運良く帰国しましたが、その男だけが帰らないので、妻は深く悲しみました。
そして、その妻は、陰暦七月十三日の夜半、夫を追いかけて、その岩から海に身を投げたようです。
それ以後、その岩を、女男石と呼ぶようになったとのこと。
また、毎年七月十三日の夜になると、波間の音が、女のすすり泣く声に変わるようです。
ところで、百島の最南端の泊地区には、だんご岩があります。
とてもシンプルな名勝地で、昭和の時代までは、ほんとうに団子が積み重なった形をしていました。
そこから、弘法大師 空海が、百島に上陸したという伝説があります。
そうなると、だんご岩のほうが、女男石よりも歴史的に古くなります。
百島の南北にある・・不思議なパワーストーンの伝説話でした。
因みに、百島が、桃島だった頃・・桃島二島(磯島と五十島)、浦崎二島,戸崎一島、田島三島、横島、加島、向島数島、さらに礁も多く、あの界隈の島々を総称して百島と呼ばれていたようで、その真ん中にあった桃島が、そのまま文字代表して百島とも呼ぶようになったかもしれません。(沼隈郡誌を参照再考しました。)
さらに、沼隈郡誌を読んでいると、大変興味深いことを発見できます。
近隣の地域や他島の生活、人柄等々を・・怠け者などとストレートに批判揶揄した紹介を記載されており、現在では人権侵害、侮辱罪で裁判沙汰になるかのような過激な表現もあります。
しかし、百島に関しては、非常に高く評価されています。
百島の人々に関しても、大変人柄もよく、勤勉であることを紹介しているのです。
今、考えるのは、日本全国に散らばる「百島」という苗字(姓)を持つ方々のタイアップが面白いかもしれません。