独楽 愛宕坂。 2016年04月03日 | 福伝。 今朝は、朝早くから歩きました。 愛宕坂から足羽神社まで上がりました。 途中、江戸時代末期の歌人橘曙覧が暮らしていた「黄金舎(こがねのや)」の跡に橘曙覧文学記念館があります。 今の時季、夜に来ると、こんな具合に灯りの回路になっています。 この辺りは、福井市の新しい観光ルートとして注目されている散策コースです。 足羽神社の境内に参ると、樹齢350年の枝垂桜が満開に咲き誇っていました。 橘曙覧の「楽しみは~」で始まる独楽吟は、心が晴れ晴れとなります。 今日も、いい朝でした。
Fukui Happiness ! 2016年04月03日 | 福伝。 春の花が咲き誇ります。 今週末も歩きました。 菜の花通りです。 今回は、福井大仏も上機嫌でした。 足羽川沿いを歩くと、大勢の車と観光客が「お花見、桜見物」を楽しんでいました。 夜桜です。 2年後の平成30年のNHKの大河ドラマの主人公は、由利公正となりますように! 幸せな福井生活です。
Symmetry 2016年04月03日 | 空木宝剣 新芽採り 昼間と夜と シンメトリー 「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」の例あり。 虫を嫌って剪定し過ぎると、満開の賑やかさを失って、さみしい花見となる。 馬鹿と鋏は適材適所。 粗末に扱ってよい命などある筈もない。 その昔「お笑い三人組」のハっちゃん役の、江戸や猫八さんは、昭和20年8月6日、兵隊として宇品港にいて原爆の悲惨さを体験。 涙ながらに述懐するさまは、子供ながらに、あの面白いハっちゃんがと違和感を覚えたことがある。 その息子の、二代目江戸や猫八さんが胃癌、66才で他界。 ひょっとしたら、被爆2世だったかも知れない。 ホー法華経と、同じ世代が飛んで行った。 散る桜、残る桜も散る桜。 花の命は寂しきことのみ多かりきか。
南北朝時代。 2016年04月03日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪) 日本史の中で、最も稀有な時代といえば、鎌倉時代から室町時代へと推移する間の「南北朝時代」だと考えます。 何しろ、日本国に御二人の天皇が即位して、年号さえも二つ存在していたのです。 ・・日本史のタブーとさえ言われています。 近代の明治になる頃には、北朝側の室町幕府を開いた足利尊氏が悪党になって、敗れた南朝側の後醍醐天皇に従った楠木正成や新田義貞が祭神扱いになっています。 現在の今でさえ、どちらが正統性があるのか謎だらけです。 ただ、その御蔭で興隆したのが瀬戸内海の水軍でした。 平家を滅ぼしたあとの源氏の鎌倉幕府は、瀬戸内海の水軍を徹底的に弾圧しました。 それほど、瀬戸内海の島々は、古代の時代から豊かでした。 その瀬戸内海の水軍の再興隆にチャンスがまわってきたのは、蒙古襲来の元寇の危機でした。 舟造り、舟操り、兵士としても、瀬戸内海の水軍が大動員されます。 その時、登場したのが前期の村上水軍です。 もともと、村上氏の祖となるのは「多田氏」です。 系図・・複雑迷路です。 その後、時代が過ぎて「南北朝時代」に信濃村上氏から師清という南朝側の人物が瀬戸内海にやってきます。 後期の村上水軍の祖となる人物です。 そして、後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上水軍三家の登場です。 考えてみれば、芸予諸島の海道を制覇・確保すれば、日本の大動脈だった瀬戸内海の航路を封鎖もしく管理できます。 軍事力というよりも「通行税」という売り上げによる経済力は、抜群の効果をもたらしました。 それも、南北朝時代の動乱、室町時代の末期の戦国時代だからこそ、村上水軍は大躍進したのです。 水軍というよりも、海賊という呼び方がいいのかもしれません。 はじめは、伊予守護職の河野家の配下、そして南朝側だった村上水軍も、室町幕府体制が確立したのちは、非常に複雑な動きになっています。 瀬戸内海のほとんどの島々が、村上水軍の拠点配下となります。 嘉吉の乱(1441)には、能島村上は、播磨守護赤松満祐の本拠地、播州白旗城攻めに参加しています。 百島の祖となる赤松一党は、どのような理由・方法で桃島へ逃げたのか? ・・話を戻します。 因島村上からの分家だった「百島村上水軍」は、本家を凌ぐほどの強大になりました。 それは、そうです。 鞆の浦と尾道、因島に行き交う舟に悉く、通行税を徴収すればよいのです。 百島村上水軍は、お隣りの田島村上水軍と組んで、因島の大浜に上陸して本家の因島村上水軍に攻撃を仕掛けたという内紛の歴史も残っています。 下剋上です・・しかし、敗北。 でも、百島村上水軍を再興されています。 当主の村上高吉は、なかなかの才覚人であり、村上水軍全体の重要な歴史を口述で残しているようです。 百島の曹洞宗西林寺に眠っています。 さて、豊臣秀吉が天下を制して「海賊停止令」を発して、各々の村上水軍の運命は分かれ消滅してゆきます。 その後の徳川幕府の260年間・・瀬戸内海の島々の経済力の豊かさは、漁業農業だけの貧しい島々に変って行きました。 南北朝時代が無ければ、瀬戸内海の村上水軍の成り立ち、興隆は歴史上に残らなかったのです。