ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百島ポート。

2017年11月07日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
はじめに、尾道港から百島経由、常石港までのフェリー百風、高速船びんごに関して・・一日乗り放題の乗船券があれば、嬉しいです。



さて、わが母校、百島中学校の思い出を辿っています。



まず、この校門を通って、自転車通学をしていました。

今は、雑草になっていますが、校門の横に、屋根付きの自転車置き場がありました。

その自転車通学の許可があったのは、泊地区の男子生徒のみ。

女子生徒は、一番遠い海老呑地区からでも徒歩通学でした・・今思うと、とても変、差別的な校則です。

福田地区の生徒は、学校裏手にある八幡神社からの石段を下りて、通学してきました。

本村地区は、あっちこっちの道から通学してきます。



なかなかの見栄えのよい学校でした。

こんもりと緑に覆われている場所には家庭科教室。

スロープの踊り場の中程に保健室。

体育館の裏手には、技術科教室がありました。

放課後のクラブ活動の合間に体育館の横で、あれこれと喋っている時間が、楽しかったなぁ。

百島中学校の各部活動は、それぞれに厳しかったです。

お蔭様で、尾道市内、近隣地区では、強豪チームというイメージがあったようです。

と、家内に自慢気に説明放題。



校舎の窓から見える風景・・長閑でした。

当時、向こうの小高い二つの山は、全部、段々畑でした。



青い空が、いつも一面の広がっているような光景でした。

とは言うものの・・いい思い出ばかりではありません。

裏手の八幡神社で、喧嘩やら殴られた思い出もあります。

当時は、引き籠りやら不登校・・そういうものは無かった。

学校史上最低レベルと言われた同級生は、仲が良かったです。

足を引っ張るよりも、手を引っ張る。

真面目だけど成績は悪い、よく騒ぐけど喧嘩は弱い・・人の弱み、哀しみ、いたわりを知るクラスでした。

同級生の中で「桃ちゃん」という絵を画かせると非常に巧い方がいました。

子供心に天才だと思っていたし、美術担当の女性教諭高垣先生が、絶賛していたのを憶えています。

ただ、中学校を卒業して以来、一度もお会いしていない・・中学卒業後、そのまま就職したとのこと。

百島の桃ちゃん・・どうしているのかな?

絵心・・ずっと持ち続けていたならば、嬉しいです。

およそ500年前、嘉吉の乱があり、赤松一党が逃げてきたのが発端という百島史の起源。

振り返ると、大変です。

されど、およそ500年後・・ひょっとすると、この界隈は、尾道、福山、府中がまとまって「BINGO city 」備後市となって、中国四国地方の州都になっているかもしれないし、日本の首都となっているかもしれません。

そうなると、百島は、空港エアポートとして、変貌しているかもしれません。

でも、未来社会は、空飛ぶ自動車が、いちばん利便性のある交通手段になっているはずです。

そして、巨大船が、動く海上住居、海上自治体となっているはずです。

桃ちゃんは、そんな未来のポートレート(絵)を描いていました。

・・もうひとつ。

中学3年生の時、生徒会の役員をしていました。

退任の挨拶の時に、二つ年下の1年生の女子生徒が、目一杯拍手してくれていたのを、ずっと憶えています。

・・感謝。

その方の息子さんが、今、百島に移住されて活躍されています。

・・踏ん張って欲しいものです。

百島は、人生の母港でもあります。



人生には、いつも百々風が吹いていて、その流れにうまく乗船できますように。