今年は、落とすことが多いようです。
今年初めにJR博多から福井までのJR切符を失くしたのを最初に次から次へと、今回は、とうとうスマホを落として失くしました。
要注意です・・・20年間分のメールアドレス、電話登録が消えてしまいました。
まぁ、整理整頓できたのでよかったのかもしれません。
先日、一乗谷朝倉家遺跡まで出かけて参りました。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、コロナ禍のため撮影中止。
放映も一時中断して、主人公の明智光秀は、今、越前に滞在暮らしたまま身動きがとれません。
それにしても、大河ドラマの影響は大きくて、県外からの観光客が多くて吃驚しました。
地元から一言申し上げると、一乗谷への個人的なバスや電車での観光は、福井市中心部からは便数が余りにも少なくて不便さ極まります。
是非共、車で観光されることをお勧めします。
現在では不便な地と言いましたが、車も電車もない戦国時代には、この一乗谷は、非常に好位置にありました。
戦国時代、京の都は荒廃状態で、多くの公家、学者、その京文化は地方に逃げたとのこと。
戦国時代の三大文化都市は、今川家の駿府、大内家の西の京と呼ばれた山口、そして、朝倉家の北の京と呼ばれた一乗谷だったとのこと。
今は、どこが北の京だったのか?
この一乗谷の南側(琵琶湖方面)にある田圃は、浅井殿と呼ばれて、もともと同盟していた浅井家の屋敷があったそうです。
その奥には、遊郭があり、一乗谷の南北の入り口には二か所の遊郭を備えており、武家も町民も混在した城下町都市であったようです。
一乗谷の山際を歩くと、石仏がいっぱいあります。
それも、草木に埋もれ隠れた石仏群もいっぱい立ち並んでいます。
いつ、誰が・・・石仏を彫ったのか?
たかが500年昔の人間も、400年昔の人間も、現在の人間も、生活を維持していくこと、生きることに関しては、同じ思いだったのではないかなぁ?
その百年繁栄した一乗谷へ、二度も室町幕府将軍が庇護、上洛を求めてやってきます。
1499年、10代将軍足利義稙、そして、1568年、最期の将軍となる足利義秋(一乗谷で、義昭に改名)です。
1568年当時は、まさに明智光秀が越前にて雌伏していた時期です。
そして、当時、足利義昭を担いでいたのが、室町幕府最期となる家臣奉行衆の三淵藤英、細川藤孝(のちの幽斎)兄弟でした。
これに、加わったのが、明智光秀なのです。
それからの歴史の詳しいあらすじは省略しますが、もし、朝倉義景も明智光秀も細川藤孝も足利義昭に最後まで仕え、明智光秀も細川藤孝も織田信長の家臣とならなければ、室町幕府、越前朝倉家は、まだまだ続いていたかもしれません。
その後の足利義昭は、信長に追放されて、毛利家の庇護のもと備後の鞆の浦に逃れ、豊臣秀吉の関白天下になっても「将軍」として長生きします。
因みに、これは、多分、足利義昭と豊臣秀吉は、同い年生まれ(1537年))で、もともと馬があったのではないかと思います。
没年も1年違いで、義昭を追うように、秀吉は逝っています。
鞆の浦は、村上水軍の管轄地であり、毛利家(実際は、小早川隆景)の支配地でした。
話は少し戻りますが、本能寺の変までは、明智光秀と親友とも言われた細川藤孝(幽斎)は、織田信長と同い年(1534年)です。
だから、織田信長の家臣に心変わりしたのかもしれません。
ただ、本能寺の変のあと、明智にもつかず、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康の側につきます。
それに比べて、兄の三淵藤英は、悲運な人生を終えます。
三淵藤英と明智光秀と年齢が同い年なのか?近かったのかどうか?・・・明智光秀の不可解なところです。
余談ですが、わが百島村上水軍の大将村上高吉は、西の名将として呼び名が高かった小早川隆景の十二家臣の一人として、よく仕えました。
村上水軍の栄光盛衰の歴史推移は「武家万代記(能島、来島、因島の村上三島海賊家軍日記)」、その口述証言したのが、村上高吉です。
これまた余談ですが、小早川隆景も、村上水軍総大将村上武吉、村上高吉も、同い年生まれ(1533年)です。
村上高吉は、小早川隆景と没年まで同じです。(1533年ー1597年)。
・・・いろいろと考えさせてくれた明智光秀の年齢不詳です。
朝倉家の一乗谷遺跡なのに、明智光秀の遺跡を巡っているような面持ちになりました。
館内には、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の衣装もポスターも展示されていました。
麒麟の石佛もあるかもしれません。
年齢不詳・・・謎めいてよいかもしれません。
朝倉街道・・・歴史の落とし物が、盛り沢山です。
今年初めにJR博多から福井までのJR切符を失くしたのを最初に次から次へと、今回は、とうとうスマホを落として失くしました。
要注意です・・・20年間分のメールアドレス、電話登録が消えてしまいました。
まぁ、整理整頓できたのでよかったのかもしれません。
先日、一乗谷朝倉家遺跡まで出かけて参りました。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、コロナ禍のため撮影中止。
放映も一時中断して、主人公の明智光秀は、今、越前に滞在暮らしたまま身動きがとれません。
それにしても、大河ドラマの影響は大きくて、県外からの観光客が多くて吃驚しました。
地元から一言申し上げると、一乗谷への個人的なバスや電車での観光は、福井市中心部からは便数が余りにも少なくて不便さ極まります。
是非共、車で観光されることをお勧めします。
現在では不便な地と言いましたが、車も電車もない戦国時代には、この一乗谷は、非常に好位置にありました。
戦国時代、京の都は荒廃状態で、多くの公家、学者、その京文化は地方に逃げたとのこと。
戦国時代の三大文化都市は、今川家の駿府、大内家の西の京と呼ばれた山口、そして、朝倉家の北の京と呼ばれた一乗谷だったとのこと。
今は、どこが北の京だったのか?
この一乗谷の南側(琵琶湖方面)にある田圃は、浅井殿と呼ばれて、もともと同盟していた浅井家の屋敷があったそうです。
その奥には、遊郭があり、一乗谷の南北の入り口には二か所の遊郭を備えており、武家も町民も混在した城下町都市であったようです。
一乗谷の山際を歩くと、石仏がいっぱいあります。
それも、草木に埋もれ隠れた石仏群もいっぱい立ち並んでいます。
いつ、誰が・・・石仏を彫ったのか?
たかが500年昔の人間も、400年昔の人間も、現在の人間も、生活を維持していくこと、生きることに関しては、同じ思いだったのではないかなぁ?
その百年繁栄した一乗谷へ、二度も室町幕府将軍が庇護、上洛を求めてやってきます。
1499年、10代将軍足利義稙、そして、1568年、最期の将軍となる足利義秋(一乗谷で、義昭に改名)です。
1568年当時は、まさに明智光秀が越前にて雌伏していた時期です。
そして、当時、足利義昭を担いでいたのが、室町幕府最期となる家臣奉行衆の三淵藤英、細川藤孝(のちの幽斎)兄弟でした。
これに、加わったのが、明智光秀なのです。
それからの歴史の詳しいあらすじは省略しますが、もし、朝倉義景も明智光秀も細川藤孝も足利義昭に最後まで仕え、明智光秀も細川藤孝も織田信長の家臣とならなければ、室町幕府、越前朝倉家は、まだまだ続いていたかもしれません。
その後の足利義昭は、信長に追放されて、毛利家の庇護のもと備後の鞆の浦に逃れ、豊臣秀吉の関白天下になっても「将軍」として長生きします。
因みに、これは、多分、足利義昭と豊臣秀吉は、同い年生まれ(1537年))で、もともと馬があったのではないかと思います。
没年も1年違いで、義昭を追うように、秀吉は逝っています。
鞆の浦は、村上水軍の管轄地であり、毛利家(実際は、小早川隆景)の支配地でした。
話は少し戻りますが、本能寺の変までは、明智光秀と親友とも言われた細川藤孝(幽斎)は、織田信長と同い年(1534年)です。
だから、織田信長の家臣に心変わりしたのかもしれません。
ただ、本能寺の変のあと、明智にもつかず、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康の側につきます。
それに比べて、兄の三淵藤英は、悲運な人生を終えます。
三淵藤英と明智光秀と年齢が同い年なのか?近かったのかどうか?・・・明智光秀の不可解なところです。
余談ですが、わが百島村上水軍の大将村上高吉は、西の名将として呼び名が高かった小早川隆景の十二家臣の一人として、よく仕えました。
村上水軍の栄光盛衰の歴史推移は「武家万代記(能島、来島、因島の村上三島海賊家軍日記)」、その口述証言したのが、村上高吉です。
これまた余談ですが、小早川隆景も、村上水軍総大将村上武吉、村上高吉も、同い年生まれ(1533年)です。
村上高吉は、小早川隆景と没年まで同じです。(1533年ー1597年)。
・・・いろいろと考えさせてくれた明智光秀の年齢不詳です。
朝倉家の一乗谷遺跡なのに、明智光秀の遺跡を巡っているような面持ちになりました。
館内には、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の衣装もポスターも展示されていました。
麒麟の石佛もあるかもしれません。
年齢不詳・・・謎めいてよいかもしれません。
朝倉街道・・・歴史の落とし物が、盛り沢山です。