まもなく入隊日も決まり、愈々バリックパパンを出発する際には、会社関係者、船長、船員の皆に見送られて、軍人として、永の別れを告げて、前線に向かったのである。
日本軍人としての誇りを持って、国の為とか陛下の為とか云って、皆が表向きは、喜び勇んで出征して行ったのである。
それまでは、民間人として自由に過ごしていたが、それからの先の軍隊の厳しさは、誰もが知る処でもある。
覚悟は出来ている積もりでも、本心は、不安だった。
現地入隊者は、バリックパパン地域の方面から約30名ぐらいいたと思う。
客船で、ボルネオ島西部の赤道直下のポンチャナに一旦上陸して、そこでまた多くの現地入隊者が集まった。
そこで改めて、配属先と部隊名も決まった。
私たち初年兵が配属された班部隊は18名だったが、内17名が、大学卒や中卒又は専門学校卒であって、私のみが、小学校卒であった。
その為か、教官は、その班を幹部候補生班として訓練と教育を行うとした。
教官は、「君一人資格は無いが、決して差別しないから。皆と一緒に頑張れ」と私に言ってくれた。
初年兵への訓練と教育は、想像もつかぬ程に厳しかった。
そんな厳しい日々を辛抱して、まもなく当時の昭南島(シンガポール)に渡ったのである。
そうして、ジョホール駅から汽車に乗り換えて、マレーシアの現在の首都クアランプール駅に着いた。
愈々本隊の部隊があるポートセッテンハムにある本隊の第二中隊に配属されることになった。
日本軍人としての誇りを持って、国の為とか陛下の為とか云って、皆が表向きは、喜び勇んで出征して行ったのである。
それまでは、民間人として自由に過ごしていたが、それからの先の軍隊の厳しさは、誰もが知る処でもある。
覚悟は出来ている積もりでも、本心は、不安だった。
現地入隊者は、バリックパパン地域の方面から約30名ぐらいいたと思う。
客船で、ボルネオ島西部の赤道直下のポンチャナに一旦上陸して、そこでまた多くの現地入隊者が集まった。
そこで改めて、配属先と部隊名も決まった。
私たち初年兵が配属された班部隊は18名だったが、内17名が、大学卒や中卒又は専門学校卒であって、私のみが、小学校卒であった。
その為か、教官は、その班を幹部候補生班として訓練と教育を行うとした。
教官は、「君一人資格は無いが、決して差別しないから。皆と一緒に頑張れ」と私に言ってくれた。
初年兵への訓練と教育は、想像もつかぬ程に厳しかった。
そんな厳しい日々を辛抱して、まもなく当時の昭南島(シンガポール)に渡ったのである。
そうして、ジョホール駅から汽車に乗り換えて、マレーシアの現在の首都クアランプール駅に着いた。
愈々本隊の部隊があるポートセッテンハムにある本隊の第二中隊に配属されることになった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます