久しぶりに東京での散歩。
二泊三日(9月8日~10日)の行程を楽しんで参りました。
18歳から30歳になるまで過ごした東京暮らしの生活。
実際、東京に行けば、特別に行きたいという場所がないのです。
ミニ同窓会待ち合わせまで、金曜日の日中がフリー。
その時間をどのように独りで過ごそうかと思案していました。
そうなると、やはり思い出すのが、学生時代に暮らしていた下宿屋界隈や母校かな。
そこで、早朝から独り、夕方まで東京散歩を楽しみました。
まずは、高田馬場へ。

ちょうど、上京した頃に出来上がったばかりの建物がBIX BOX。
広島カープが初優勝した42年前の昭和50年当時です。

当時は、この建物・・東京では話題のビルディングでした。
毎日のように、デビューしたての歌手が、BIX BOX内でミニライブをしていました。
実際に観て・・憶えているのは、岩崎ひろみさん、麻生めぐみさんかな?
高田馬場から地下鉄東西線早稲田駅まで朝の散歩。
・・夏目漱石の生誕地という石碑があります。

そこから、ゆるやかな坂道(夏目坂)を、ドンドンと真っ直ぐに上がります。

途中に立派な警備も厳しいマンションのような、とある銀行の社宅があります。

作家有島武郎の旧宅跡にあって、当時は、銀行のボロい団地のような雰囲気でした。
前の広場で団地の子供たちと三角ベースして遊んだ記憶があります。

その先、数十メートルぐらいに、お世話になった木造家の下宿屋がありました。
今は、小奇麗なマンションに代わっていました。
牛込界隈です・・東京女子医大もあり、河田町には、フジテレビもありました。
よく、生放送の歌謡番組のスタジオ内見学に行ったものです。
山口百恵、桜田淳子、森昌子、郷ひろみ、西條秀樹、野口五郎・・人気絶頂の時代です。
今は、笑点の座布団運びをしている山田君・・彼も「ずうとるび」というグループメンバーのアイドル歌手でした。
彼の同級生の友達というのが、予備校に居たのを思い出しました。
そうそう、僕が、高校を出て進学したのが、早稲田大学の大隈講堂裏手の並びにあった早稲田ゼミナールという予備校です。

実際、42年前に、我々が学んだ早稲田ゼミナールの建物が、いまだに現役で使われていたのには、ビックリ。

今は、早稲田大学に買収されて、予備校生相手ではなくて、高齢者向けの学習センターとして使われているとのこと。
ここで、1年間、みっちりと早稲田大学に入る受験テクニックを教わって学んだ思い出の場所です。
そして、見事に晴れて入学した大学が、アジア(亜細亜)大学でした。
何故?・・話をすると長いので省きます。
もうひとつ思い出深いこと。
早稲田ゼミナール予備校登校初日に、高校の同級生とバッタリと出会いました。
彼は某大学に現役合格・入学・・さらに早稲田大学を目指していて、その実力は十二分ありました。
そして、それ以来、彼の受験計画も頓挫。
僕と一緒に東京見学を兼ねての遊びが、多過ぎたのでしょう。
今も申し訳ないという気持ちがありますが・・人生、結果オーライです。
現在、彼は、経営者として、尾道の経済界を引っ張るポジションにいます。
近い将来、尾道の商工会議所会頭となることを期待しています。
リーガロイヤルホテル東京から眺めた大隈庭園です。


当時は、この庭園には、誰でも入れて、芝生が広くて、こんなに緑木深くもなかったです。
さて、武蔵野へ。
スマホを落として機能不全になるトラブルもありましたが、新宿のヨドバシカメラでリカバリー、感謝。
思うのに・・大学ビジネスは、凄く儲けているのでしょうか?
早稲田大学の建物施設、範囲を拡げて立派なビルディングだらけになっていました。
中央線沿いから見える順天堂、明治、法政、東京理科、東京医科歯科、すべて立派なビルディングに替わっていました。
我がアジア大学も新校舎の建築中でした。

今、通信教育でお世話になっている京都の佛教大学も同じく新校舎建築中。
中央・総武線吉祥寺、三鷹・・そして、次が、武蔵境駅です。

見事な変わりぶりに言葉を失くしました。
在来線の尾道駅舎から、新幹線の新尾道駅に建て替えられたぐらいの変わり様です。
さすがに、武蔵境駅周辺は、アジア大学一色の幟だらけです。

さらに、歩いて不思議な感覚になったのは、大学生の頃、畑の横を歩いていたのです。
今は、住宅地になって連なっていました。
当時、下宿していた40年ほど昔の荻窪の住宅地が、そのまま、40年後、ここに引っ越してきたような不思議な感覚です。
我が母校のアジア大学まで訪ねて歩きました。

途中に、見覚えのある木が立っていました。

日本獣医畜産大学跡です。
畑が、あった!
・・嬉しいですね。

母校が、近づいて来ました。
ちょっと・・ドキドキ。



振り返ると、独りの外国人が立っていました。
後ろから、ぼくのあとをついて来たのかな?
アジア大学の留学生?と訊くと、ノーとの返事。
フランスのパリから来て、今は、浅草で地域興しを手伝っているとのこと。

名刺もくれて、ちょっと・・不思議な出会い。
夏休みのキャンパス内へ。

少人数ですが、学生さんも歩いていました。

先日、テレビを観ていると・・。
明石家さんまが、亜大生のタレントに「アジア大学は、誰でも入れるじゃないの?」という意地の悪い質問をしていました。
その通り・・一芸があれば、入学可能性大です。
「ようこそ、亜細亜大学へ」です。

職員さんの許可を得て、屋上に上がってみました。

ここで、よく昼寝をしたものです。

ここからは、新宿の高層ビル群、富士山の威容も、よく見えました。

不倫問題のタレントのベッキーも、歌手の夏川りみさんも、登山家の野口健さんも、中退した俳優の吉岡秀隆さんも、松たかこさんも、みんな通ったアジア大学キャンパス内です。
プロになった野球人、芸能人、オセロ日本一、けん玉日本一・・その他大勢いるのが、亜大OBです。
卒業生約10万人近いとか・・でも、ほとんどの有名人でもある亜大OBでさえ、自分の大学を率先して名乗りません。
そのあたりが、訊かれてもいないのにも関わらず、早稲田大卒と名乗る早稲田OBとは違うのです。
俗に言うと、MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)、関関同立の偏差値レベルの以上の大学に進学卒業しないと、そういう点、誰でも入学できて卒業した亜大OBは、他大学OBとの競争という先入観では、社会に出ると苦しい立場に直面します。
日本での学歴優先の一般的な社会では、国士舘大、拓殖大と同様なイメージが重なります。
だからなのでしょう・・亜大卒と言わないで、「とある大学を中退した」という仲間がいます。
彼の出身高校は、抜群に知名度もある進学校です。
そこに力点を置きながら、自分の会社では、東大卒や早慶卒を雇い入れて、こき使っているようです。
ほんとうに・・彼は、中退すればよかったのにと思います。
そんな話題が、ミニ同窓会で盛り上がります。
「ふぞろいの林檎」という三流大学卒の青春ドラマがありました。
還暦になるまで、亜大卒という学歴は「有り難くなかった」と言いながらも、アジア大学大好きなのです。
人脈とコネを活用しながらも、何とか・・裏道街道を自力で走り抜けて生き残ったツワモノ仲間です。
あくまでも、僕個人が勝手に想像する限りの亜大時代の友人像です。
自助協力・・亜大の体育館です。

とても嬉しくもあり・・健在でした。
この体育館で、40年ほど昔、入学式も、卒業式も行われました。
当時の理事長は、東急グループの総帥であった故五島昇氏でした。
学長は、太田耕造氏・・実質的な亜細亜大学創立者で初代学長です。
(明治22年、福島県生まれ。苦学の末、東京帝国大学法律科を卒業。その後弁護士から貴族院議員となり、平沼内閣では内閣書記官長(現在の官房長官)、終戦時の鈴木内閣では文部大臣を歴任。敬虔なクリスチャンでもあり、教育の重要性を説き、実践し続けた人格者でした。亜大の建学精神「自助協力」は、太田初代学長の意志を反映されたもの。)
卒業式での太田先生から贈られた言葉は、今でも覚えています。
・・要約です。
「皆さんは、この大学で沢山の下駄を履かされていたのです。そして、単位が取れて、今日の卒業式を迎えることが出来ました。社会に出ると、その高下駄はありません。皆さん・・80点、70点の目標では駄目。常に、百点満点を目指しなさい。そうすれば、ミスをしても人生という成功単位を取れます。いつまでも、あなたがたの人生を応援しているのが、あなたの母校となるアジア大学だということを忘れないでください。」
我々が卒業した翌年、太田先生は、他界されました。合掌。

もうひとつ、あの体育館での思い出が甦ります。
あの体育館での体育の授業中・・バスケットの試合をしている最中に、体育会の学生とトラブルになりました。
(体育会・・学生服を着た応援団体のようなもの。正式な応援団は、当時、他大学の応援団と衝突して活動中止処分中でした。)
体育会の学生相手のトラブルだと、あとあと面倒です。
そこに、友人のAが現れて、「おまえがラフな態度でぶつかってきて、喧嘩を売るというのは、どういう了見だ。体育会だと思って偉そうにするな!」と一喝。
相手側から謝罪。
Aに「助け舟を出してくれて、ありがとう」と言うと、「お互い様だ」と答えていました。
以前、同じような状況で、僕が、彼を助けたとのこと。
今回も、Aには、会えませんでした。
Aは・・何をしているんだろうな?
・・そんな想いを持ちながら、アジア大学をあとにしました。

銀杏並木も大きくなった母校訪問・・暑い中、フラフラしながら都心に向かいました。
いつか、機会があれば、Aと一緒に訪問したいものです。
ガウディ風の建物の外壁に組み込まれた時計。

温故知新・・そんな時間を過ごすことが出来ました。
感謝。
二泊三日(9月8日~10日)の行程を楽しんで参りました。
18歳から30歳になるまで過ごした東京暮らしの生活。
実際、東京に行けば、特別に行きたいという場所がないのです。
ミニ同窓会待ち合わせまで、金曜日の日中がフリー。
その時間をどのように独りで過ごそうかと思案していました。
そうなると、やはり思い出すのが、学生時代に暮らしていた下宿屋界隈や母校かな。
そこで、早朝から独り、夕方まで東京散歩を楽しみました。
まずは、高田馬場へ。

ちょうど、上京した頃に出来上がったばかりの建物がBIX BOX。
広島カープが初優勝した42年前の昭和50年当時です。

当時は、この建物・・東京では話題のビルディングでした。
毎日のように、デビューしたての歌手が、BIX BOX内でミニライブをしていました。
実際に観て・・憶えているのは、岩崎ひろみさん、麻生めぐみさんかな?
高田馬場から地下鉄東西線早稲田駅まで朝の散歩。
・・夏目漱石の生誕地という石碑があります。

そこから、ゆるやかな坂道(夏目坂)を、ドンドンと真っ直ぐに上がります。

途中に立派な警備も厳しいマンションのような、とある銀行の社宅があります。

作家有島武郎の旧宅跡にあって、当時は、銀行のボロい団地のような雰囲気でした。
前の広場で団地の子供たちと三角ベースして遊んだ記憶があります。

その先、数十メートルぐらいに、お世話になった木造家の下宿屋がありました。
今は、小奇麗なマンションに代わっていました。
牛込界隈です・・東京女子医大もあり、河田町には、フジテレビもありました。
よく、生放送の歌謡番組のスタジオ内見学に行ったものです。
山口百恵、桜田淳子、森昌子、郷ひろみ、西條秀樹、野口五郎・・人気絶頂の時代です。
今は、笑点の座布団運びをしている山田君・・彼も「ずうとるび」というグループメンバーのアイドル歌手でした。
彼の同級生の友達というのが、予備校に居たのを思い出しました。
そうそう、僕が、高校を出て進学したのが、早稲田大学の大隈講堂裏手の並びにあった早稲田ゼミナールという予備校です。

実際、42年前に、我々が学んだ早稲田ゼミナールの建物が、いまだに現役で使われていたのには、ビックリ。

今は、早稲田大学に買収されて、予備校生相手ではなくて、高齢者向けの学習センターとして使われているとのこと。
ここで、1年間、みっちりと早稲田大学に入る受験テクニックを教わって学んだ思い出の場所です。
そして、見事に晴れて入学した大学が、アジア(亜細亜)大学でした。
何故?・・話をすると長いので省きます。
もうひとつ思い出深いこと。
早稲田ゼミナール予備校登校初日に、高校の同級生とバッタリと出会いました。
彼は某大学に現役合格・入学・・さらに早稲田大学を目指していて、その実力は十二分ありました。
そして、それ以来、彼の受験計画も頓挫。
僕と一緒に東京見学を兼ねての遊びが、多過ぎたのでしょう。
今も申し訳ないという気持ちがありますが・・人生、結果オーライです。
現在、彼は、経営者として、尾道の経済界を引っ張るポジションにいます。
近い将来、尾道の商工会議所会頭となることを期待しています。
リーガロイヤルホテル東京から眺めた大隈庭園です。


当時は、この庭園には、誰でも入れて、芝生が広くて、こんなに緑木深くもなかったです。
さて、武蔵野へ。
スマホを落として機能不全になるトラブルもありましたが、新宿のヨドバシカメラでリカバリー、感謝。
思うのに・・大学ビジネスは、凄く儲けているのでしょうか?
早稲田大学の建物施設、範囲を拡げて立派なビルディングだらけになっていました。
中央線沿いから見える順天堂、明治、法政、東京理科、東京医科歯科、すべて立派なビルディングに替わっていました。
我がアジア大学も新校舎の建築中でした。

今、通信教育でお世話になっている京都の佛教大学も同じく新校舎建築中。
中央・総武線吉祥寺、三鷹・・そして、次が、武蔵境駅です。

見事な変わりぶりに言葉を失くしました。
在来線の尾道駅舎から、新幹線の新尾道駅に建て替えられたぐらいの変わり様です。
さすがに、武蔵境駅周辺は、アジア大学一色の幟だらけです。

さらに、歩いて不思議な感覚になったのは、大学生の頃、畑の横を歩いていたのです。
今は、住宅地になって連なっていました。
当時、下宿していた40年ほど昔の荻窪の住宅地が、そのまま、40年後、ここに引っ越してきたような不思議な感覚です。
我が母校のアジア大学まで訪ねて歩きました。

途中に、見覚えのある木が立っていました。

日本獣医畜産大学跡です。
畑が、あった!
・・嬉しいですね。

母校が、近づいて来ました。
ちょっと・・ドキドキ。



振り返ると、独りの外国人が立っていました。
後ろから、ぼくのあとをついて来たのかな?
アジア大学の留学生?と訊くと、ノーとの返事。
フランスのパリから来て、今は、浅草で地域興しを手伝っているとのこと。

名刺もくれて、ちょっと・・不思議な出会い。
夏休みのキャンパス内へ。

少人数ですが、学生さんも歩いていました。

先日、テレビを観ていると・・。
明石家さんまが、亜大生のタレントに「アジア大学は、誰でも入れるじゃないの?」という意地の悪い質問をしていました。
その通り・・一芸があれば、入学可能性大です。
「ようこそ、亜細亜大学へ」です。

職員さんの許可を得て、屋上に上がってみました。

ここで、よく昼寝をしたものです。

ここからは、新宿の高層ビル群、富士山の威容も、よく見えました。

不倫問題のタレントのベッキーも、歌手の夏川りみさんも、登山家の野口健さんも、中退した俳優の吉岡秀隆さんも、松たかこさんも、みんな通ったアジア大学キャンパス内です。
プロになった野球人、芸能人、オセロ日本一、けん玉日本一・・その他大勢いるのが、亜大OBです。
卒業生約10万人近いとか・・でも、ほとんどの有名人でもある亜大OBでさえ、自分の大学を率先して名乗りません。
そのあたりが、訊かれてもいないのにも関わらず、早稲田大卒と名乗る早稲田OBとは違うのです。
俗に言うと、MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)、関関同立の偏差値レベルの以上の大学に進学卒業しないと、そういう点、誰でも入学できて卒業した亜大OBは、他大学OBとの競争という先入観では、社会に出ると苦しい立場に直面します。
日本での学歴優先の一般的な社会では、国士舘大、拓殖大と同様なイメージが重なります。
だからなのでしょう・・亜大卒と言わないで、「とある大学を中退した」という仲間がいます。
彼の出身高校は、抜群に知名度もある進学校です。
そこに力点を置きながら、自分の会社では、東大卒や早慶卒を雇い入れて、こき使っているようです。
ほんとうに・・彼は、中退すればよかったのにと思います。
そんな話題が、ミニ同窓会で盛り上がります。
「ふぞろいの林檎」という三流大学卒の青春ドラマがありました。
還暦になるまで、亜大卒という学歴は「有り難くなかった」と言いながらも、アジア大学大好きなのです。
人脈とコネを活用しながらも、何とか・・裏道街道を自力で走り抜けて生き残ったツワモノ仲間です。
あくまでも、僕個人が勝手に想像する限りの亜大時代の友人像です。
自助協力・・亜大の体育館です。

とても嬉しくもあり・・健在でした。
この体育館で、40年ほど昔、入学式も、卒業式も行われました。
当時の理事長は、東急グループの総帥であった故五島昇氏でした。
学長は、太田耕造氏・・実質的な亜細亜大学創立者で初代学長です。
(明治22年、福島県生まれ。苦学の末、東京帝国大学法律科を卒業。その後弁護士から貴族院議員となり、平沼内閣では内閣書記官長(現在の官房長官)、終戦時の鈴木内閣では文部大臣を歴任。敬虔なクリスチャンでもあり、教育の重要性を説き、実践し続けた人格者でした。亜大の建学精神「自助協力」は、太田初代学長の意志を反映されたもの。)
卒業式での太田先生から贈られた言葉は、今でも覚えています。
・・要約です。
「皆さんは、この大学で沢山の下駄を履かされていたのです。そして、単位が取れて、今日の卒業式を迎えることが出来ました。社会に出ると、その高下駄はありません。皆さん・・80点、70点の目標では駄目。常に、百点満点を目指しなさい。そうすれば、ミスをしても人生という成功単位を取れます。いつまでも、あなたがたの人生を応援しているのが、あなたの母校となるアジア大学だということを忘れないでください。」
我々が卒業した翌年、太田先生は、他界されました。合掌。

もうひとつ、あの体育館での思い出が甦ります。
あの体育館での体育の授業中・・バスケットの試合をしている最中に、体育会の学生とトラブルになりました。
(体育会・・学生服を着た応援団体のようなもの。正式な応援団は、当時、他大学の応援団と衝突して活動中止処分中でした。)
体育会の学生相手のトラブルだと、あとあと面倒です。
そこに、友人のAが現れて、「おまえがラフな態度でぶつかってきて、喧嘩を売るというのは、どういう了見だ。体育会だと思って偉そうにするな!」と一喝。
相手側から謝罪。
Aに「助け舟を出してくれて、ありがとう」と言うと、「お互い様だ」と答えていました。
以前、同じような状況で、僕が、彼を助けたとのこと。
今回も、Aには、会えませんでした。
Aは・・何をしているんだろうな?
・・そんな想いを持ちながら、アジア大学をあとにしました。

銀杏並木も大きくなった母校訪問・・暑い中、フラフラしながら都心に向かいました。
いつか、機会があれば、Aと一緒に訪問したいものです。
ガウディ風の建物の外壁に組み込まれた時計。

温故知新・・そんな時間を過ごすことが出来ました。
感謝。
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