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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百々とサムハラ神社 奥の宮。

2020年11月10日 | 日本の百々巡り。

良寛さんと円通寺のことを書くまえに、津山市加茂町にある「サムハラ神社 奥の宮」について書きます。

サムハラ(𪮷〓𪮷𪮇)神社・・・難しい文字で、漢字ではなく神文字だとのことです。



「神様に呼ばれた人だけが行ける神社」ということですが、今の時代はネットの時代、地元加茂町の方、観光協会、トラベルブックの情報源から誰でも行けるはずです。

祭神は、祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神。



つまり、伊勢神宮の天照大神の親神様だとのこと・・・世界唯一の宇宙一の神様ということ?

帰宅後、ネット検索すると、この超絶なパワースポットには驚かされました。

あの斎藤一人さんも、天之御中主神を信心しているとか。

是非、ここに集う皆様、是非共、ネット検索してください。

そして、もし「サムハラ神社奥の宮」を参拝しようと思うならば、僕のブログを参考してくだされば有難いです。

百々橋ならぬ百々参拝道です。

そう、このサムハラ神社が鎮座されているのは、日詰山という素晴らしく「百」に近い名のお山の名前です。

「百」の表意文字の意味は、日を吊り上げ、吊り下げていますからね。

僕が、まったく偶然にサムハラ神社奥の院に参拝できたのは、百々を訪ねた御蔭様です。

さて、まったく新しい視点で、サムハラ神社に参拝、感謝です。

日詰山には、室町時代以前には、百々城が築かれていました。

その後、戦国時代には落合城が築城されて、その頃に、サムハラという神文字が石碑に刻まれているのを見つけたことで、古代からのサムハラ信仰が一気に広まったとのこと。

江戸時代には、金刀比羅宮が、この日詰山の分祀されたとのこと。



明治元年、日詰山の麓(百々)に生まれたのが田中富三郎翁、人生百年を全うします。

まだ、セーラーもパイロット万年筆も無い、百年昔。

故郷の百々を愛した田中富三郎翁は、百x百の萬年筆の先駆者として、大阪から全国普及に努めて財を成したとのこと。

そして、郷里の日詰山の古い祠を、大阪で「サムハラ神社」を私財で建立したとのこと。

と、簡単に説明しましたが、さて、日詰山への参詣記です。

まずは、金刀比羅宮へ参拝、隣りの「荒神社」の祠にも参拝。



ちょうど、ここの宮総代か、氏子さんが、神事の準備作業をしている最中でした。

僕は、何にも考えず、声掛けして、「百々」「百」の地を訪ねて、このサムハラ神社に偶然、参拝したことや、いつものように「百」の歴史観を話していると、どうも皆さん忙しいのか、煙たがっている雰囲気、全く興味を覚えていない様子でした。

はて・・?

ちょっと境内をひと巡りして、もう一度、彼らのもとに行き、質問しました。

田中富三郎さんは、百々出身ですよね? 「はい」という返答でした。

皆さんも、百々の方ですよね? 「いいえ、中原です」という返答。

そういえば、サムハラ神社の住所は、加茂町中原であり、加茂町百々ではないのです。

しかも、皆さんは、サムハラ神社の氏子さんではなくて、地元の氏神様、金刀比羅宮の氏子さんなのだと理解できました。

例えば、百島の福田地区の方に「福」の効用、意味、素晴らしさを説明すれば興味を示すでしょうが、百島の本村地区や泊地区の方に「福は素晴らしい」と説明しても、今ひとつという感覚です。

百福となれば、食品業界の革命となったインスタントラーメンを思い出します。

田中富三郎翁・・・サムハラ神社に、ちょっと「百」を付けて欲しかったなぁ。

百々地区で生まれ育った田中富三郎翁・・・目の前にある日詰山から上がる日の出を毎日眺めていたはずです。

僕は、偶然、百々地区から参拝して、その証を見つけました。

気になる石の小さな鳥居を見つけました。

柱石には、田中富三郎と刻印されていました。



おそらく、田中富三郎翁は、幼い頃から、この場所から日詰山を眺めて、山に登っていたのかなと想像できる位置にありました。

因みに、ネット検索すると、サムハラ神社の参拝路は、百々の側からすると日詰山の裏手の中原地区になりますが、ほとんど通らない百々からの参拝路が有難く思えました。

「サムハラ神社」の御蔭様、写真で拝むだけでも御利益があるとのこと。

サムハラ、サムハラと唱えるだけでも御利益ありとのこと。

全国から熱心な信仰者が、ここに集います。

サムハラ神社奥の宮です。





深く七拝、強く八拍手・・・サムハラ、感謝。



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