近江八幡市にある百々(もも)神社に参拝して詣りました。
嘘だと思うかも知れませんが、日本最古の神社の1つかも知れません。
道祖神を祭神とする百々神社・・・何を守っているかと言うと、かつては真向かいの「島」地区を守っているのです。
冗談のような話ですが、対岸には立派な近江八幡市立島小学校があります。
「(故郷に)誇りを持ち 瞳輝やく 島の子」というスロガーンを掲げていました。
僕自身、故郷の百島を懐かしみました。
この「島」地区、古代は奥津島と呼ばれ、かつては琵琶湖自体の化身である琵琶湖の神だったそうです。
伝説としては、第13代成務天皇の古墳時代まで遡るとのこと。
実際、大嶋神社、奥津嶋神社として、約1900年昔から、この地に鎮座されているとのこと。
今回は、この大嶋、奥津島神社、百々神社を含めて、この地域で八つの神社の宮司である深井先生と1時間程、談笑させたいただきました。
いろいろと貴重なお話を伺う事が出来ました。
感謝。
つまり、かつては島だったこの地域は、島神様だったとのこと。
島神様へ近づく悪霊、悪人を追い払い、同時期に建立されたのが、百々神社の役目だったとのこと。
当時、百々神社は、「どど神社」と呼んでいたとのこと。
「もも神社」への呼び方を変えたのは、近郊で織田信長が安土城を築城する際に、入門手前の堀に百々橋(どどはし)という名の橋を架けた時だったそうです。
時の権力者織田信長に遠慮して、百々(もも)という呼称に変更したとのこと。
織田信長が滅びた後も、そのまま現在に至るまで、百々(もも)神社と呼んでいるとのこと。
何故、そのまま百々(もも)と呼んでいるのだろう?
因みに、深井先生曰く、百々(どど)の語源は、川の流れのドッドッという音に起因するとの事。
では、何故、「百」という漢字が使われたのか?
東京にある等々力(とどろき)渓谷の「等々」やら「堂々」「轟」でいいのでは?
百という文字、形に、力が宿っているのでしょう。
僕個人の余談憶測ですが、信長のあと、豊臣秀吉の時代になると、この地域は、秀吉の甥、養子である豊臣家二代目関白となる秀次が治めるようになります。
近江商人発祥の地となるこの地域を発展させたのは、豊臣秀次の善き治世だとも言われています。
豊臣秀次は、個人判断なのか?朝鮮出兵に関しても出陣していません。
秀次の息子に、仙千代丸、百丸、十丸という幼児もいました。
その後、秀次は謀反の罪で、この幼き息子等を含めて一族悉く斬首となります。
千、百、十、の悲劇でもあります。
この悲しい狂気のような事件が無ければ、豊臣政権は長らく続き、徳川の時代は存在しなかったかも知れません。
豊臣秀吉の時代は、「万」の時代へ。
太閤検地に、刀狩り、後々、徳川時代へと続くよろずの士農工商の身分制度時代の基礎となります。
それは、百姓という刀を持たない何でも屋という万の職種が拡がります。
室町時代までは、百という文字には、水の精霊、何かしらの力が宿っていると、誰もが信じていたのではないかと考えます。
水は、恐ろしくもあり、生きるためには貴重な存在だからです。
刀を取り上げられて、百は、百姓へと変わります。
百から百々へ、百々から百がつく姓(苗字)へと増幅した意味合いもあります。
さて、百々神社。
多くの方が、手を合わせて通り過ぎます。
百々神社の傍らに、八幡山へのハイキングコースの入り口があります。
百々神社は、今尚、豊臣秀次の居城だった八幡山城を護っているのかも知れません。
深井先生、ご高齢にも関わらず冗談も言います。
百々神社は、北の方向に向いているとのこと。
その為、北から吹き付ける風にも立ち向かっているとのこと。
お陰様で、喘息の病を持つ方々も多く詣られるとのことでした。
昔、インターネットが普及していない頃、奈良県橿原市に暮らす百々さんという方が、自分のルーツを探し求めて、全国の電話帳を調べながら、ここに来られたと、僕を見ながら思い出すように話されていました。
百島も、百々も、自分探しの歴史の一部となるのでしょう。
近江八幡、歴史の重みを感じました。
もう一度、訪ねたくなる近江八幡の百々(もも)神社でした。
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