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百島村上水軍秘史

2014年07月09日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今年の本屋大賞となったのは、和田竜の長編歴史小説「村上海賊の娘」・・村上武吉の娘・景を描いているとか。

・・まだ読んでおりません。

随分昔、城山三郎先生の意欲作「秀吉と武吉 ~目を上げれば海~」という能島村上水軍の当主村上武吉と豊臣秀吉を描いた作品を読んだことがあります。

正直な読後感想を述べると「非常にがっかりした」としか言えない記憶があります。

村上水軍一門の歴史を紐解くと、非常に複雑です。

愛媛県史には「村上水軍の歴史」を詳細に記録記載しています。
下記に抜粋~
村上氏の遠祖は清和源氏または村上源氏ともいい、平安時代の末頃から伊予の河野氏と結んで瀬戸内に勢力を張ったと伝わる。南北朝時代の頃、南朝のてこ入れのため北畠顕家の息子が村上家に入り村上師清と名乗ったのが後の三島村上氏の先祖となると言われるが、この人物を北畠氏側の史料では確認できないようである。いずれにせよ村上氏の出自は定かではない。
村上師清の子供は能島、来島、因島の三島に分かれて、勢力を張った。代々伊予の河野氏との関わりも深かったようであるが、周防の大内氏の勢力が伸びてくるとその傘下にも入った。三島は一応能島を宗家としていたが、因島は安芸の児玉氏や小早川氏と親しく、来島は伊予の河野氏に近いなどそれぞれの利害関係はかなり異なり、独自に行動することが多かった。
上記に抜粋~

端的に言えば、その勢力拠点は芸予諸島を中心であり、村上一門の後期において、俗に言う、能島村上、来島村上、因島村上の三家へ分かれました。

当時、瀬戸内海という概念は無く、現在のしまなみ海道の芸予諸島に関所を設ければ、瀬戸内海航路を制覇できたのです。

因みに、因島は備後の国、瀬戸田のある生口島は安芸の国、弓削島は伊予の国でした。

さて、因島村上水軍というのは、備後の鞆の浦にも領地があり、田島村上をも傘下に治めていました。

では、百島村上というのは?

・・これが謎なのです。

何故かというと応永34年(1427)、将軍義持が赤松氏を討伐した時、村上因島家の村上備中入道は、山名時煕の催促によって出兵し、将軍から感状を与えられた・・村上三家の名が、歴史上にはっきりと登場するのは、この時以来なのです。ー愛媛県史料抜粋ー

その後、1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐の一族が百島に逃れて住み着いたという歴史認識を、どうとらえるべきなのか?

赤松一門も村上一門も・・繁殖・生存能力が素晴らしいのに、誰も探究しようとしません。

悲しい哉・・誰も歴史的な認証を加筆した人がいないのです。

村上吉高( 喜兵衛義高)。
百島村上、茶臼山の初代領主。因島村上家庶流であり、村上吉房の子であるとのこと。
その後、永正年間、因島村上一門の村上範和と結び幸崎城を攻撃するも敗退、逆に因島村上家の攻撃を受け戦死。

村上吉卿(むらかみ よしあき)
百島村上水軍の海将。村上吉房の子。永正年間、本家(因島村上家)と抗争になり茶臼山城を攻められる。
この時、兄・吉高を失うも、島内に残り抵抗を続け、和議を結ぶ事に成功。
兄の子・高吉を呼び寄せ、百島村上家の再興を果たす。
以後、高吉の補佐を行い、各地の海戦で活躍した。

村上高吉(喜兵衛高吉 1533~1597)
居城 :備後国百島茶臼山城
因島村上水軍の海将。百島村上家二代目。吉高の子。
永正年間、本家と抗争になり、茶臼山城を落とされ、島外に逃れ一命を取り留めた。
後、叔父の吉卿に呼び戻され、因島水軍の海将として活躍し、厳島合戦・木津河口海戦において奮戦した。
1579年 - 村上喜兵衛高吉 百島萬松山西林寺(曹洞宗)を建立。
1592年 - 村上喜兵衛高吉 小早川隆景の命を受け朝鮮に出兵。毛利氏より感状を貰う。

因島村上傘下の田島村上家に残る古文書によると「村上又左衛門就常の曾孫・又七朗が、祖父から譲り受けた由緒ある木仏と石仏の二体を百島の西林寺へ寄進した」とあります。

村上水軍一門の多くは、真言宗徒であり、百島西林寺は、別格だったのかもしれません。

さて、子供の頃に聞いた茶臼山で切腹した大将(村上吉高)は、因島村上ではなく、伊予の河野水軍に攻められたという記憶があるのです。

その時、何故・・近隣の村上水軍が助けに来なかったのか?という素朴な疑問がありました。

吉高の父は、村上吉房・・因島村上ではなく、来島村上の当主では?

本能寺の変・・織田信長が暗殺される頃の瀬戸内海では、既に村上水軍一門も敵・味方と散り散りにバラバラでした。

豊臣の時代になった頃には、海賊停止令発布。

その後の村上水軍一門の流れは、いつか、また書くとして・・。

百島には、昔から豊後(大分県)から、わりと多くお嫁さんが嫁いで来ているのです。

何故か、分かりますか?

江戸時代、来島村上・・吉房を起源とする子孫一族は、豊後国の森へ転封。当主は、久留島氏と改め、以後代々、森藩主。
明治維新後は子爵となります。

付け加えるならば、村上吉房の子、村上吉高、そして高吉親子は、かなり赤松一門の影響を受けたような気もします。

西林寺建立もしかり。

独断個人的推測の百島村上一門秘史の一部です。

また、黙々と興味が湧き上がった時に、この続きを書きます。


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