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殖産興業政策と渋沢栄一と大阪紡績会社

2024-07-03 09:54:48 | 渋沢栄一

 1874年末頃、神聖天皇主権大日本帝国政府の大久保利通内務卿は、殖産興業政策を推進していくうえで、三井・三菱を頂点とする「政商」への保護政策を打ち出した。そして、それら民間への融資を推進した。その融資先の状況を見ると、「銀行」については、高額順位第1位は三井銀行、第2位は第2国立銀行であるが、第3位には渋沢栄一頭取である「第1国立銀行」となっている。また、「会社」については、第1位は三菱会社、第3位は三井物産会社である。また、「個人」に対する融資については、第1位は五代友厚、第2位には渋沢栄一となっている。

 渋沢栄一が「大阪紡績会社」を起こした理由についてであるが、渋沢は当時の帝国日本が、綿糸輸入が急増するのを憂えており、綿糸布商・薩摩治兵衛らと相談し、大規模機械紡績工場の設立計画をつくった。そして、たまたまロンドンへ渡り経済学を学んでいた旧津和野藩士・山辺丈夫に紡績技術と経営を習得させた。

 1880年7月に帰国した山辺は、渋沢と相談し水車動力工場設立の適地を探したが見つからないため、1881年末に蒸気動力を利用する事に変更した。そして、渋沢らと同様に大規模機械紡績工場設立を計画していた、大阪の洋反物商・松本重太郎や長州藩奇兵隊出身の政商・藤田伝三郎らとが手を組む事となったのである。

 松本藤田の奔走で1882年3月には大阪木津川沿い三軒家の「官有地」の払い下げを獲得し、藤田組が工事を行い、翌1883年3月に設立がなった。資本金は28万円、頭取は藤田伝三郎、相談役は渋沢栄一、取締役は松本重太郎と第1国立銀行大阪支店・熊谷辰太郎が就いた。

 業務全般を統轄したのは山辺であり、英国から招いた技師ニードルにより輸入紡績機1万500錘が据え付けられ、1883年7月には操業開始に至った。

(2021年2月22日投稿)

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