1929年10月24日、米国ニューヨークの株式市場(ウォール街)の株価が暴落し世界恐慌が始まった。
スペイン王国では1931年4月に共和派が、スペイン革命を起こしブルボン朝を倒してスペイン第2共和国を成立させた。新共和国政府はヴァイマル憲法にならった新憲法を制定したが、土地解放を実施せず、地主・教会・軍部・資本家などは必死で巻き返しを図り、政情は安定しなかった。しかし、1936年2月の総選挙で勝利したアサーニャ人民戦線内閣は土地改革や教会の特権剥奪などに着手した。それに対し危機感をもった僧侶・軍人・大資本家・地主に支持されたフランコ将軍が、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱(スペイン内乱の始まり。~1939年3月)を起こし軍事政権を成立させた。この時、これを支援したヒトラーのナチス・ドイツ軍(コンドル軍団)が残虐な無差別爆撃を行ったのがゲルニカという町であった。ドイツとイタリアはフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。またドイツはこの内乱を兵器と戦術のテスト場として多くの残虐行為を行った。スペイン生まれのピカソはその残虐さを絵画『ゲルニカ』に描き抗議した事は有名である。
※ゲルニカ・バスク人「ゲルニカを含む、フランスとスペインの国境沿いにはバスク人が住み、バスク地方と呼ぶ。現在バスク人は国を持たず、ピレネー山脈西端麓、ビスケー湾に面したスペイン側(ゲルニカを含む)の4県とフランス側の3地方に住んでいる。バスク人はクロマニヨン人の進化した民族といわれ、現在の欧州に住む各民族の中でも最も古くからイベリア半島に住んでいた。独自の習慣や、ほかの欧州言語とはまったく類似性のないバスク語を話す。かつてはローマに侵略されても自治を保ち、5世紀の西ゴート族、8世紀のイスラム侵入にも全面降伏を許さなかった。ムーア人の侵入は、「バスク人は全員貴族だ」という理由で奴隷化を免れ、支配者が現れると、逆に自分たちの「法律」を見せて、「これを守ってくれるなら領主や王として認める」と言ったという誇り高いエピソードを持つ。12世紀頃から、カスティリア王国の支配下に入った後も、何とか自治権を維持しようと試み、それが適っていた時代もあった。しかし、その後のフランス革命、スペイン内乱などでは、自立はうやむやになってしまい今日に至っている。伝統的に続く独立運動は20世紀に入っても衰えていないが、その象徴がゲルニカの町にある「樫の木」である。かつてこの木下でバスク人たちは、領主や国王に自分たち独自の「法」を護る誓いを建てさせたのである。元々ゲルニカは、人間の「自由と尊厳」の象徴の町としての歴史がある。
1937年4月28日付の「タイムズ」紙の記事では、「バスク人の最古の都市であり、その文化的中枢であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍の空爆によって破壊された。戦線からはるか離れたこの非武装都市の爆撃はきっかり3時間15分にわたって行われ、その間3機のドイツ型編隊機は1000㍀を下らぬ爆弾を町に投下し続けた。戦闘機は町の中央から野外に避難している民間人に対し、機関銃を打ち込んだ」と書いている。
首都マドリードは抵抗を続けた。「優勢なフランコ軍の包囲は、マドリードの陥落を最早時間の問題であると思わせていた。「奇跡」が起こらなければマドリードは間もなく陥落するであろう、といわれた。しかし、その「奇跡」が起きた。マドリードは以後2年半持ちこたえる事になったのである。20歳から45歳までの男子は、首都防衛のために総動員される事になった。市民は豪を掘り、石工を指導者としてバリケードを作った。女性も使い慣れない銃をとって戦列に加わった。市内では次第に燃料がなくなり、湯茶さえも沸かせなくなった。ちょうどこの時、反ファシズムの情熱に燃えた45ヵ国の知識人や労働者が、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まった。世界的に頭をもたげた巨獣のようなファシズムと戦うスペインは、各国の労働者や青年を惹きつけた。彼らにとってスペイン人民戦線は、正義・革命・民主主義そして英雄的献身のシンボルであった。彼らは国際旅団を作って、スペイン市民とともに戦った。」(斉藤孝著『スペイン戦争』中公新書)
※国際旅団については、別稿(カテゴリー:日本人)「スペイン戦争で人民戦線政府の国際義勇兵として戦った日本人がいた」を参照してください。
しかし、1939年3月、マドリードは孤立無援状態でフランコ軍に陥落した。
スペイン人民戦線側は、外国に武器援助を求めた。それに応えたのはメキシコ政府とソ連政府だけで、人民戦線政府への援助の声明を出した。それに対し、英・仏両政府はともに不干渉政策をとった。そのため、独・伊両政府によるフランコ反乱軍への武器援助は、欧州資本主義諸国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われた。また、米国政府は、フランコ側にガソリン・自動車などの物資を援助した。
英国・仏国・米国それぞれの政府は、マドリード陥落後すぐにフランコ政権を承認した。そして、ナチス・ドイツは欧州戦争の準備に精力を集中した。フランコ政権によるスペイン人民戦線の敗北は、スペイン以外の国々において、帝国主義戦争へと突き進む自国政府の政策を止める事ができなくなり、第2次世界大戦の序幕となったのである。
(2022年4月24日投稿)