現在、メディアの扇動により、国民の間の話題は、ロシアによるウクライナ侵略問題で持ち切りのように思われるほどであるが(実際のところはどうであるか分からないが)、今から100年ほど前には、神聖天皇主権大日本帝国原敬政権(1918年9月~21年11月)が、ロシアで革命が起こり、1918年1月社会主義政権として生まれ変わった「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」(1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦)に対し、それを打倒するとともに、火事場泥棒のごとくシベリア東部を略取し支配下に置こうとする対ソ革命干渉戦争政策を実行し失敗した歴史がある事を国民のどれほどが知っているだろう。
ソヴィエト共和国政府は1917年11月、「平和に関する布告」を採択し、第一次世界大戦の即時休戦と、「無併合・無賠償・民族自決」の民主主義的原則に基づく講和を呼びかけた。さらに秘密外交の廃止も宣言し、帝政ロシアが結んだすべての秘密条約の失効も公表した。大日本帝国政府との秘密条約=日露協約も公表され無効とされ、大日本帝国政府は「満州」での制約はなくなった。しかし、連合国が戦争の早期終結を拒否したため、ソヴィエト共和国政府は1918年3月3日にはドイツ帝国政府と単独講和(ブレスト・リトフクス講和条約)を締結し戦線から離脱した。
危機感を持った英仏両国政府は、反ソヴィエト政権を樹立し、レーニン政権を打倒しようと、米日両国政府にも「対ソ革命干渉戦争」(1918~22)への参加を呼びかけた。その口実としたのが「チェコスロバキア軍」が樹立した「反ソヴィエト政権」の救援であった。
大日本帝国政府は元々、連合国の掣肘を受ける事なく独自に出兵し、反革命勢力を支援し、帝政ロシアが抑えていた「満州」北部と東支鉄道の支配権を掌握し、うまくいけば「満州」北部と東部シベリア(バイカル湖以東)地域に反ソビエトの親日傀儡政権を樹立し、間接的な支配権の確立を狙っていた。その動きは、1918年1月には、革命勢力に圧力をかけるためウラジオストクの居留民保護を名目に巡洋艦2隻を派遣。4月5日には居留民殺傷事件を名目に陸戦隊出兵上陸。ハルビンでは中東鉄道長官ホルヴァ―ト権力を支援しソヴィエトを鎮圧。当時大日本帝国国内では、労働争議が頻発し、社会運動の勃興がみられ、18年6月には後藤新平外相が意見書で、人心の弛廃を憂え、「シベリア出兵を断行し、人心を緊張せしむるの要あり」と述べ、寺内正毅首相も「資本家と労働者の懸隔甚だしき事が国体に合致せぬ国民思想の変化を生む」と危険を警告しており、大日本帝国政府としては国内政治的危機の回避のためにも「シベリア出兵」を急がねばならないと考えていた。しかし、『大阪朝日』『東洋経済新聞』をはじめ多くの新聞・雑誌は出兵に反対し、国民も冷ややかであった。
※『東洋経済新聞』の反対論 1918年7月25日号「社説」より
「目下の露国の混乱は、経済上の理由から発した国内の階級戦だという事を、強く我が国民に知ってもらいたい。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。……明治維新も一種の階級戦であった。混乱は随分続いた。しかしこの時外国の勢力が、あるいは幕府を援け、あるいは討幕党を圧迫する事によって能くその混乱を鎮め得ただろうか。よし一時は鎮め得たとしても、それで国民は満足したであろうか。今の露国で、反革命を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。……過激派(ボルシェビキ[多数派]を当時このように訳した)を承認しろ過激派を援けろ。連合国は、思想上過激派と一致せざるやにて、その承認を拒んでおるが、それでは彼らは他国民の思想に干渉する者である。民族の自決権などいう事を喧しくいう連合国の主張とは矛盾である。……事実は仮令厭うべきものでも、その存在を認めねばならぬ。……責めるにしても、援けるにしても、存在する物を認めぬという法はない。悪かったらこれを責めるも善い、勧告するも善い、とにかく過激派政府を認めて、露国のため、連合国のため最善の努力をなさしめる。これをおいて他に現下の時局を救う途はない。……無名の兵を露国に出だし、露国民の憤恨を買うが如きは、絶対にすべからざる事である。」
18年7月に米国の出兵提案を受け、同年8月2日、大日本帝国政府はシベリア出兵(ウラジオストク)を宣言した。大日本帝国軍1万2千人、米国軍7千人、英仏軍5800人の約束で共同出兵し大日本帝国政府軍が指揮権を握った。大日本帝国政府は、米国の限定出兵の約束を形式上受け入れたが元々、出兵地域や兵力量を限定するつもりがなかったので、10月末には7万2千人(ソ満国境の満州里からチタへ侵略した関東都督府指揮下の部隊も含む)の派遣となり、シベリアのバイカル湖以東を制圧した。1918年11月11日、ドイツの休戦協定調印により第一次世界大戦は終結したが対ソ革命干渉戦争は続けられた。しかし、1919年初めから大日本帝国政府軍は戦況不利となり、又手段を選ばない残虐な戦闘行為はシベリア民衆の反日感情とパルチザン抵抗運動を強める事になり、大日本帝国政府軍部隊の全滅が相次いだ。鉄道や鉄橋、電話線なども絶え間なく破壊されたが、大日本帝国政府軍はその報復として、村を焼き払い住民を男女の別なく虐殺した。
1920年1月、対ソ革命干渉戦争の無益さを感じた米国と英仏両国が撤兵声明を出したが、大日本帝国政府軍は東部シベリアや樺太北半部の略取に執着し、出兵理由を「朝鮮・満州への革命波及の防止、シベリア居留民の保護など」に改めて駐兵継続を宣言し、沿海州のソヴィエト軍の武装を解除して各都市を占領し居座りを続けた。この事は、尼港(ニコライエフスク)事件を招く事となった。
大日本帝国内では、日本労働総同盟が「即時撤兵・日ソ通商開始」の要求運動を起こし、1922年には「対露非干渉同志会」が作られたためもあり、1922年10月撤兵を完了した。しかし、樺太北半部の撤退完了は尼港事件処理に拘ったため、1925年5月まで長引いた。
※シベリア出征兵士の体験 松尾勝造『シベリア出征日記』より一部抜粋
「(1919年2月13日)……家の中より物陰より盛んに発砲して来るが、その時はもう身の危険等との考えは微塵も起こらない。一昨日の恨み、戦死者の弔い合戦だと身の疲労等とうに忘れてしまい、脱兎のごとくに攻め入った。……硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵は土民かの見境はつかぬ。手当り次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった。前もって女子供、土民を害すなと注意されてはいたものの、敵にして正規兵は極少数、多くは土民に武器を持たしたものの、武器を捨てれば土民に早変わりという有様にて、兵か土民かの見分けの付こうはずはない。片っ端から殺して行く。」
※列国の「ソヴィエト社会主義共和国連邦」承認の時期
1922年 ドイツ 1924年 イギリス、イタリア、フランス
1925年 日本 1933年 アメリカ
1934年 ソ連、国際連盟加盟
(2022年4月16日投稿)