新撰組は幕末期、京都守護職に就いた会津藩主・松平容保支配下の尊攘派・討幕派の弾圧組織であり、戊辰戦争にも幕府側として行動した。松平容保の出自についてはここでは触れない。
新撰組は元来、徳川幕府が江戸の浪人懐柔統制政策により組織した浪人組織である。1863年には14代将軍家茂が公武合体政策のため京都入りする際の列外警護を名目に京都へ送り込んだ。京都守護職配下で、内紛を経たのち、近藤勇が新撰組の局長となり、尊王攘夷派や討幕派を弾圧する事を目的とする組織として活躍し、歴史上に表舞台に初めて登場するのが、1864年6月に起こした京都三条の池田屋尊攘派志士襲撃事件である。
ところで、大坂での初めての登場は、新撰組の制服(浅黄地の袖へ山型を染め抜いた麻の羽織、紋付の単衣、小倉の袴の三つ揃え)100余人分をそろえる事から始まった。1863年4月下旬、鴻池屋善右衛門家に近藤勇と相談のうえ初代局長・芹沢鴨が訪れ、京都守護職配下を笠に着て200両の借用を脅し調達させた。ゆすり恐喝行為である。これで手に入れた金でそろえたのが新撰組の制服であった。
二度目の大坂入りをしていた1863年7月25日当時、新撰組は大坂八軒屋の定宿・京屋忠兵衛方へ滞在していた。舟遊びに出かけた芹沢鴨ら8人は、通りがかった大坂角力・小野川喜三郎部屋の力士と喧嘩をし切り殺した。力士側は怒り、新撰組が宴席を開いていた曽根崎新地に殴り込んだが、返り討ちに遭い、力士側のみが死者5人、重軽傷16人が出た。近藤勇は宿にいて知らなかったようであるが、大坂西町奉行所に「無礼討ちにした」と届け出た。この時、筆頭与力・内山彦次郎は「我らは町方の取締りを以て任とする。しかるに、卑しくも人命を失いその理由の是非曲直を糾弾せざるにおいては役儀が立ち申さん」と近藤勇を厳しく追及した。この事は後に、新撰組による内山彦次郎への報復のための暗殺を引き起こすきっかけとなった。
1864年5月20日、近藤勇局長ら新撰組は、筆頭与力・内山彦次郎の惨殺死体の上に「この者、奸物にして灯油を買い占め、諸人を困窮せしむるをもって、天誅を加えるなり」との書付を置き立ち去った。暗殺者は近藤勇、沖田総司、原田佐之助、永原新八、井上源三郎など。永倉新八『新撰組始末記』によると「はじめに籠の外から突いたのは沖田。内山はとっさに籠の中に吊っていた刀ではね除けようとしたらしいが、鞘をかすっただけで脇腹に突き刺さった。首は近藤が打ち落とした。」との事。また、新撰組側の記録によると彦次郎は「幕府の役人でありながら、長州の手先になって大坂で米や灯油を買占め、幕府の人気を落とそうとしたため」としている。しかし、西町奉行の久須美佐渡守の評価は「昼夜の境がないほど御用に励み、性質は誠実堅固で、しかも才能がある。大坂の生まれなのに町人と慣れ親しんで賄賂を取る事もなく、仕事以外は町人を自宅に一歩も入れない」とあり、新撰組側の記録はでたらめとされている。
近藤勇局長が大坂の豪商22人にあてた1864年12月の自筆の「約定詔書」が鴻池側に残っているが、それによれば、京都守護職が大坂町奉行を通さず大坂商人に借金する事はありえないので、彼が松平容保の名を使って活動資金を集めた事がわかるものである。内容は「こんど松平肥後守殿が京都守護職をつとめるについて、必要な資金の借用を拙者からお前たちに相談したところ、みんな国恩を感じ別紙証文の通り出してくれたのは非常にうれしい。返済期日は守るが、万一違約があったときは、拙者の責任で返すから安心してほしい」というものである。「別紙証文」には金換算で「7万1千両」とあり、「約定」は「反故」にした。
以上は新撰組の行動の一端であるが、安易に新撰組を美化する結果を招くおそれのある内容の報道は慎むべきである。
(2023年8月29日投稿)