つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

現実主義の現実とは、自公政府の価値観によって築かれたもの

2024-09-28 23:53:15 | 防衛

 「普遍的価値」を大切にしようとする姿勢に対し、「現実主義」を主張する政治的態度は、与えられた現実(現状)を、その根本的理由を追及する事なく、あるがままを容認し、その容認の上に思考(政策)を打ち立てていこうとする態度である。又、その「現実主義」者の目に入る現実(現状)は実際に目に映る現実(現状)でしかない事が多い。そして、そのような現実(現状)はほとんど、「政府の価値観」とそれに基づく政策によって築かれてきた現実(現状)なのである。「現実主義」者は現実(現状)に根本的疑問を持っていない。その容認の上に、思考(政策)を組み立てる。したがって価値観において、「現実主義」者の最大の特徴は、「普遍的価値観」といえるものではなく、「政府の価値観」であるといえる。「現実主義」者は、「政府の価値観」をはなれ、「個人の価値観」に基づいて思考する事はほとんど不可能である。「現実主義」者は、「普遍的価値観」を言葉にしても、それは「個人の価値観」で裏打ちされたものではないため、「口先だけ」や具体性のない言葉だけ」のものに過ぎないのである。このような国民が多いほど、岸田自公政府にとって都合のよい政策を実現する上で、都合のよい政治状況である事はいうまでもない事である。

(2023年1月9日投稿)

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(改訂版)岸田首相の安倍追悼の辞を読み解く

2024-09-26 23:28:52 | 国葬

 2022年9月27日、安倍氏の「国葬」名の違憲違法の非合法葬儀を強行した岸田首相が、自身の「追悼の辞」にどのようなメッセージを盛り込んでいるのかを、思いつくまま読み解いてみよう。

 まず、「追悼の辞」の最初に「従一位、大勲位菊花章頸飾」と安倍氏が受章している勲位名を述べているのは、安倍氏を「国葬」とする事が、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府における「国葬令」(1926年10月21日公布、1947年12月31日失効)に基づき正当なものであると表明しているという事である。「国葬令」第3条には、「国家に偉功ある者に対し、天皇の特旨により国葬を行う事ができる」とあり、「国家に偉功ある者」とは、複数の組閣経験と没日以前に最高位の「従一位、大勲位菊花章頸飾」を授賞している事などとなっていたからだ。戦前回帰をめざす岸田自民党首相としては当然の事だったのだ。また、国民の反対を押し切って強行実施したのは、実際はどうであれ、本来の「国葬」を実施したように後世の国民に思い込ませるために、歴史を捏造するためでもあった。そのためには、現行の憲法や法制度において違憲違法であろうと、国民の非難反対に遭い黙祷や弔意表明の協力を要請できず戦前のように実施できなかろうが、何が何でも「国葬」の名称使用にこだわったのである。これは意図的な憲法や法律の蹂躙であり、現行の民主主義政治体制国家体制を変更する政治テロ行為である。

 岸田首相は、現行の民主主義政治体制国家体制を変更し、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰をめざした安倍自公政治を正当化し、積極的に支持し継承する決意を表明している。例えば、「この国の進むべき道を、聴衆の前で熱く語りかけておられた」「あなたは、まだまだ、長く、生きていてもらわなければならない人でした」「日本と世界の行く末を示す羅針盤として、10年、いや20年、力を尽してくださるものと、わたくしは、確信しておりました」「わたくしは、外務大臣として、その時代を生きてきた盟友としてあなたの内閣に加わり、一意専心取り組むことができたことを、一生の誇りとする」「(拉致事件について)わたくしはあなたの遺志を継ぎ、全力を尽くす所存です」「あなたが敷いた土台のうえに、持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓う」などの表現に、安倍自公政治のすべての正当化と安倍氏に対する熱い支持の意思を表明している。偏向した憎しみや加害者意識のない正義感も含めて

 岸田首相が支持する安倍自公政治については、「次々と戦後置き去りにされた、国家の根幹的な課題にチャレンジした」事であると評価し、それはまず「私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ」という表現は神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰の意志を伺わせる。具体的に「(安倍氏の)国民へのメッセージは、シンプルで明快でした。戦後レジームからの脱却。防衛庁を、独自の予算編成ができる防衛省へ昇格させ、国民投票法を制定して、憲法改正に向けた、大きな橋を架けた。教育基本法を改め新しい日本のアイデンティティの種を蒔きました」と述べ、岸田氏は神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰をめざす意志を明確にしている。

 岸田首相が支持する安倍氏の安全保障政策については、「米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強くしたうえに、インド、オーストラリアとの連携を充実させて「クアッド」の枠組みをつくった」「平和安全法制、特定秘密保護法など、我が国の安全は、より一層保てるようになった」とし、対中国、ロシア、北朝鮮に対する敵視政策を支持している。

 岸田首相は、日本の青年たちに対し、安倍氏のように生きる事を勧めナショナリズムの高揚を煽っている。「『戦後レジームからの脱却』を実現するのは、私たちの勇気と、英知と、努力である。日本人であることを誇りに思い、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか」と述べ、安倍氏を、「あなたこそ勇気の人であった」と讃え、青年たちのめざすべき理想の人物と述べているのである。

 そして、岸田首相は、国民にはもちろん世界の人々に対しても、実態(米国追随の北朝鮮中国敵視政策のみの安保体制の強化や、沖縄県民の意志を無視した政治姿勢などなど書き尽くせない)とは全く正反対であり許すべからざる「欺瞞」を極めつくした言葉安倍氏を称賛顕彰している。それが「日本と、地域、さらには世界の安全を支える頼もしい屋根をかけ、自由、民主主義、人権と法の支配を重んじる開かれた国際秩序の維持増進に、世界のだれより力を尽したのは、安倍晋三その人でした」というものである。この「国際秩序」というのは米国政府(また将来的には日本の自民党政府)以外の政府がリーダーであってはならないとする考え方のものである。

(2022年10月1日投稿、2日改訂)

 

 

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靖国神社第2鳥居右側の「高札」は、天皇の神社である事を国民に明示したものであり憲法違反

2024-09-22 22:06:24 | 宗教

 靖国神社は、その「神門」手前の第2鳥居下の左右に「高札」(掲示板)を設置しているが、主権者国民はその右側の「高札」の内容に関心を持った事があるだろうか。この高札の内容には、敗戦後であるにもかかわらず、昭和天皇が靖国神社に深く関わっていた事を示す文言が明確に示されており、看過してはならないのではないだろうか。また、神社側が今日までこの「高札」を設置し続けているのは、昭和天皇以後の各天皇もこの「高札」内容を否定する意志が無いという意志を表明していると見なして良いだろうし、破棄する意志も持っていないという事を表明していると見なしてよいだろう。 

 高札の内容には、「勅裁如件」の文言があるが、「勅裁」とは「天皇の裁可」を意味しており、昭和天皇が裁可し、それを受けて神社側が敗戦後の1946年10月に設置したものである。ここに問題がある。なぜなら、1946年2月には、神社の権宮司が全職員に対して靖国神社が宗教法人の一つとして新たに発足する事をすでに告示していたからである。また、昭和天皇が裁可した内容は靖国神社の例大祭日の変更についてのものであり、その変更を「天皇の裁可」によるものとして公表しているからである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア太平洋戦争敗戦までの靖国神社の例大祭日露戦争戦勝記念日であり、春季例大祭陸軍青山練兵場における観兵式の日である4月30日秋季例大祭横浜沖における海軍の観艦式の日である10月23日であった。敗戦後、GHQの占領政策である靖国神社の非軍国主義化」により、1946年9月9日に「靖国神社例祭規程」の一部改正をし、旧暦の春分・秋分の日を新暦に換算し、春季例大祭は4月22日秋季例大祭は10月18日に変更する事を決めた。理由は「従来の日露戦争戦勝記念日では、戦争放棄を宣言する新憲法が発布されようとする時に、新発足の途上にある靖国神社において、この両日を例祭日として存続するのはふさわしくない」ためとしている。この変更に昭和天皇の裁可が必要だったという事を「勅裁如件」の文言が証明しているのである。

 昭和天皇は靖国神社に対して、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府と同様に政教分離の原則憲法第99条を無視した「祭政一致の原則」(国家神道体制)を敗戦後の日本国憲法下においても維持継続したのであり、彼以後の平成天皇においても現天皇においてもそれを継承している事を意味しているという事なのである。主権者国民はこれを放置看過すべきではない。

※憲法第99条……憲法尊重擁護義務。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負うふ」

(2020年3月17日投稿) 

 

 

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パレスチナ問題(中東戦争)の発端はイギリスとアメリカの無責任外交

2024-09-22 11:05:13 | 米国の世界戦略

 パレスチナ問題の発端は、第1次世界大戦中のイギリスの外交手法にある。イギリスがパレスチナ地方に関し結んだ矛盾した3つの協定にある。

 それは先ず1915年10月、イギリスの駐エジプト高等弁務官マクマホンが、アラブ指導者フセインに対し、戦争に協力する事を条件に、アラブ人居住区の独占独立国家建設を認めると通告した「フセイン=マクマホン協定」である。この協定に基づいて、アラブは対トルコ戦を開始した。

 1916年5月には、イギリス・フランス・ロシアによるトルコ領の分割協定を結んだ事である。パレスチナの国際管理も約束したが、1915年の「フセイン=マクマホン協定」でアラブ人に独立国家建設を約束した事と矛盾し、アラブ人を怒らせた。

 1917年11月には、イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ系金融資本の協力を得るため、ユダヤ人にパレスチナでの建国を約束した「バルフォア宣言」を表明した事である。この事は、すでに1915年に「フセイン=マクマホン協定」で、パレスチナでの独立建国を約束されていたアラブ人を怒らせた。

 第1次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となると、イギリスの保護下にユダヤ人のパレスチナへの移住移民が増加し、アラブ人との衝突が始まった。

 イギリスは、両者の対立を解決できず、困った揚句、アメリカ主導下の国連へ、委任統治の返上を申し出た。国連総会では1947年11月29日に、「パレスチナ分割国連決議」を採択した。その要旨は、

1、イギリスの委任統治を1948年8月1日までに終結する。

1、パレスチナをアラブ国家ユダヤ国家エルサレム特別国債管理地区3つに分割する事とし、1948年10月1日までにこれを実現する。1947年当時、全人口の3ぶんの1以下で、パレスチナ全面積の6%しか所有していなかったにもかかわらず、ユダヤ人国家に割り当てられた面積は、全パレスチナの57%を占めていた。

1、イギリス軍は1948年8月1日までに段階的にパレスチナから撤退する。

という内容であった。この決議は、多数派決議案で、表決はシオニストを支持するアメリカが多数派工作を行った結果、賛成33、反対13、棄権10。ソ連は賛成、イギリスは棄権。アラブ6カ国は全部反対であった。 決議案にはこのほかに「アラブ人とユダヤ人の連邦をつくり、エルサレムを首都とする」というインド・イラン・ユーゴスラビアによる少数派提案があった。

 国連総会の「分割決議採決」から、パレスチナは内戦状態になったが、1948年5月にイスラエルが国家樹立の宣言を行った翌日から、第1次中東戦争(=パレスチナ戦争、1948~49)が始まった。

(2023年10月24日投稿)

 

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侵略戦争に協力し煽った西田幾多郎を顕彰する石川県建設かほく市管理運営の記念哲学館

2024-09-22 11:02:02 | アジア・太平洋戦争

 2020年12月15日付朝日新聞が「西田哲学 スポーツで探る」という見出しの記事を掲載した。「生誕150年を迎えた」として西田幾多郎(1870~1945)を「称賛」「顕彰」し「肯定」している事をうかがわせる表現を使って。また、西田のプロフィール内容も極めて一面的で偏向しており、西田についての知識を持たない人を欺き好印象を与えるようにしている。朝日新聞はなぜ今何を目的に「西田哲学」を好意的に取り上げるのか注意が必要である。

 西田幾多郎の生誕地石川県かほく市(旧宇ノ気町)は、西田の業績を後世に長く顕彰する事を目的として、すでに1968年には宇ノ気町立西田記念館を建設していた。その後2002年6月8日には、石川県が、かほく市に管理運営を委ねた、「石川県西田幾多郎記念哲学館」(安藤忠雄の設計)を開設している。かほく市も石川県もともども西田を「顕彰」する「立場」に立っているといえる。

 哲学館HP「概要」には「西田哲学」を、「日本の哲学の歴史の出発点であり一頂点でもある……すでに古典の位置を獲得……国内外での関心の高さや研究文献の数が、その事を物語っている」「生きる事を凝視し続けた哲学」と高く称賛している。また、かほく市教育委員会が出す冊子は「西田先生」としており、市議会でも呼び捨てにしていない状況が存在する。

 しかし、西田はの関係する「国策研究会」での演説を『世界秩序の原理』(1943年)にまとめたが、それには「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心というだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。」「神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云う事は、単に直線的という事ではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云う事でなければならない」「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云う事にあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。」「英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。」と述べているように、万世一系の天皇を頂く神国日本が、世界の覇者になると予言していたのである。

 また、1940年には講演録『日本文化の問題』では、日中戦争を肯定し、「従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視されていた、各自の世界史的使命を奪われていた。……今日の東亜戦争は後世の世界史に於いて一つの方向を決定するものであろう」と述べていた。

 また、西田は禅体験による「純粋経験」を哲学の出発点としたが、それは、主観と客観の分離の否定、知情意の区別の統合、個と全体の統一であり、滅私奉公、さらに国民が国家(政府)=天皇のために殉死する事を正当化するものであった。西田の国家観は、天皇を父()とする疑似家族国家であり皇道であり、共産主義のみならず、民主主義自由主義を否定した。

 西田の教え子三木清は1933年、近衛文麿のブレーン「昭和研究会」に参画し、中心メンバーとなっていた。39年には彼の著『新日本の思想原理』で「東亜共同体論を構想し、西田哲学を具体化した。これが近衛首相の「東亜新秩序」声明となり、「大東亜共栄圏」や「大東亜戦争」の元となったのである。

 西田の理解者であり、ともに京都学派をリードした田辺元は、1940年に『歴史的現実』を出版し、「抑々天民・君民一体という言葉が表して居る様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分に組織され生かされて居る、国家の統制と個人の自発性とが直接に統合統一されて居る、之が我が国家の誇るべき特色であり、そういう国家の理念を御体現あらせられるのが天皇であると御解釈申し上げてよろしいのではないかと存じます。」「死が問題となるのは死に於いて生きつつあると共に、生に於いて死に関係しているからである。……我々が死に対して自由になる即ち永遠に触れる事によって生死を超越するというのはどういう事かというと、それは自己が自ら進んで人間は死に於いて生きるのであるという事を真実として体認し、自らの意思を以て死に於ける生を遂行する事に他ならない。」という論理、つまり「生きる事は死ぬ事だ」「悠久の大義に準じた者は永遠に生きる」という論理を説き、強要される戦死自発的な戦死へと歪曲させた。

 西田の直系の弟子の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らは1941年に座談会を行い、戦争を正当化した(『世界史的立場と日本』)。42年には『近代の超克』を発表した。敗戦後4名は公職追放となった。

 最後に、近年注意しなければならない動きは、「自由と民主主義が不幸を生む。平等主義や格差是正などは欺瞞である」(『反・幸福論』)などと主張している佐伯啓思が、西田哲学に傾倒し、日本や特攻を賛美している(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』)事である。

(2020年12月18日投稿)

 

 

 

 

 

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