■マイ・サマー・ガール / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ (CBS)
日本のロック全盛期だった昭和40年代前半のGSブームの頃、そのトップバンドのひとつだったブルー・コメッツは、今にして思えば奇異なグループでした。
なにしろ長髪にキッチュな衣装が当たり前のGSの中にあって、スーツ姿に七三の髪型、落ち着いたステージマナーと抜群の演奏力、さらに自前のヒット曲を易々と連発する姿勢は、ロックというよりは歌謡曲に近い存在感さえありました。
実際、それは何かとNGが多かった他のGSバンドを差し置いてNHKへの出演が許可されたり、歌謡曲の女王だった美空ひばりの「真っ赤な太陽」でバックを務めたり、ついには名曲「ブルー・シャトウ」で昭和42(1967)年度のレコード大賞を獲得するという快挙も含めて、日本芸能史を彩るエピソードには事欠きません。
しかしブルー・コメッツの凄さは、決して大衆路線ばかりではなく、当時の洋楽や社会の流行にもきちんと目を向けていた基本姿勢から作り出される親しみ易さじゃないでしょうか。
さて、本日ご紹介の「マイ・サマー・ガール」は昭和43(1968)年夏にヒットした「草原の輝き」のシングル盤B面曲なんですが、掲載した画像でもご覧になれるとおり、レコードスリーブがちゃ~んとB面にも対応出来るように作られたところに、当時の業界とバンドの勢いが感じられると思います。
そして曲タイトルからもご推察のとおり、イントロからのコーラスワークはモロにビーチボーイズを意識したものですし、そこはかとないアンニュイなムードを漂わせるAメロから一転して力強いロックヒートで歌われるサビの痛快感が、実に最高♪♪~♪
もちろん演奏&コーラスパートもブルー・コメッツの自前でしょう。
説明不要のメンバーは井上忠夫(vo,ts,fl)、三原綱木(vo,g)、小田啓義(key)、高橋健二(vo,b)、ジャッキー吉川(ds) という黄金の5人組ですが、しかしブルー・コメッツはGS期に突発的なデビューを果たしたバンドではなく、その結成は昭和32(1957)年頃だと言われています。
もちろん当時のメンバーは前述の5人ではなく、それでもジャッキー吉川が業界用語ではボーヤと呼ばれるローディとしての付き人修行を経た昭和35(1960)年頃になって、それまでのハコバン体質から脱却したと言われています。
しかし当時の仕事は鹿内孝や麻生京子といった所謂ロカビリー歌手のバックを務めることがメインであり、中でも尾藤イサオと組んだ昭和40(1965)年の「悲しき願い」が大ヒットしたことは有名でしょう。前述のメンバーが揃ったのも、この時期だと言われています。
そして余勢をかってというか、いよいよブルー・コメッツも自らの活動を活性化させ、その背景にはエレキブームとビートルズの世界的なブレイクがあったことは明らかなんですが、バンド編成からも推察出来るとおり、ブルー・コメッツは最初からベンチャーズやビートルズではなく、デイヴ・クラーク・ファイブの路線を狙っていたんじゃないでしょうか?
メンバーの前歴にジャズが大きく根ざしていることも、その要因かもしれませんし、何よりもビートバンド的な狂騒よりは、なにをやっても洒落たセンスを活かしたポップなフィーリングを大切にしていたように思います。
それは当時の洋楽では、もうひとつの柱となっていたハリウッドポップスやモータウンサウンドの歌謡曲への流用という、単なるエレキ&ビートバンドには容易く成しえない職人技であり、しかも我国伝統のリズム歌謡と呼ばれた折衷洋楽の衣鉢さえ継ぐものでした。
このあたりは当時、ライバルとして人気を二分していたスパイダースにも共通する部分はあるでしょう。しかしスパイダースがあくまでもロック優先主義を前面に出していたのとは対照的に、ブルー・コメッツはもっと幅広いファンを獲得する道を選択したのかもしれません。
なにしろ、そのブレイクする端緒となった英語詞のオリジナル曲「青い瞳」が昭和41(1966)年に評判を呼ぶと、すぐさま日本語バージョンを出して大ヒットさせてしまうという姿勢が潔い!
まあ、そういうところは後の歌謡曲どっぶり路線への転身にも繋がることなんでしょうが、ちょうどその端境期に出された「マイ・サマー・ガール」は、洋楽ポップスと昭和歌謡曲のギリギリの接点が上手く表現出来た隠れ傑作じゃないでしょうか?
ちなみに作編曲とリードボーカルは三原綱木です。
ということで、所謂季節商品としてもイマイチ忘れられている名曲だと思いますが、今年の夏こそブレイクして欲しいと、毎年のように願っているのでした。
ジャケ写の幾分の暑苦しさは、ご容赦下さいませ。