■I'm A Boy c/w In The City / The Who (Reaction / ポリドール)
私は少年時代から、ザ・フーというバンドが大好きでしたが、そのリアルタイムの1960年代後半の我国では、からっきし人気がありませんでした。
それは契約や権利の関係等々からイギリスで作られていたオリジナル仕様のアルバムが、そのままの形では日本発売が無かったことにもよりますが、ザ・フーの楽曲に特徴的なポップなメロディと素晴らしいコーラスワーク、そして反比例するかのように暴れる強靭なペースと爆裂ドラミングによる強いビートで形作られた歌と演奏が、当時の洋楽を楽しむ最も手軽な手段になっていたAMのラジオ放送では、その魅力が充分に伝わらなかったことによるものと、今は冷静な分析も出来るところです。
また普通のロックバンドではサウンドの要となるはずのギターが、ザ・フーでは一番に目立たない存在というか、燃えるようなギターソロも少なく、どちらかと言えば縁の下の力持ち的な役割だったのも、我国でウケなかった要因かもしれません。
とにかくリアルタイムの我国で、ザ・フーのファンは今とは比較にならないほど少なかったと思われますし、必然的にアルバムも日本独自の編集盤ばかりという偏ったものでしたから、経済的な理由も合わせれば、若き日のサイケおやじはシングル盤を買う他はなく、本日ご紹介の1枚も昭和42(1967)年の初夏に買ったものです。
もちろん本国イギリスでは前年夏に発売され、大ヒットしていたわけですが、我国では全くヒットしなかったと思います。
しかし両面ともに、ザ・フーの持ち味を最高に楽しめることは請け合いで、A面の「I'm A Boy」は一抹の哀愁を含んだ綺麗なコーラスと覚えやすい曲メロが力強いビートで煽られていくという、幾分屈折したポップフィーリングがクセになるほどですが、それは幼い頃から女装で育てられた主人公のせつない叫びを綴った歌詞があればこその説得力が絶大!
またB面の「In The City」はザ・フーの面々が大ファンだというビーチボーイズ風味が極めて強い、実にマニアックな歌と演奏ですから、思わずニヤリ♪♪~♪
ちなみにザ・フーが恒常的に使うコーラスワークは、当然ながらビーチボーイズからの影響も大きく、またオペラチックに展開されるあたりとバックの暴虐的な演奏のコントラストは、後のムーブ、イエス、クイーン等々に受け継がれていくものと確信しています。
ということで、本国イギリスでもシングル盤オンリーの発売ということで、後には様々なベストアルバムに収録される代表曲ですが、唯ひとつ、「I'm A Boy」に関しては、1971年に発売された「ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ (Track)」に収録の同曲は再録加工した別バージョンなので要注意です。
今では常識になっていますが、ザ・フーのライプステージの凄さは、例の「ウッドストック」の記録映画が我国で公開されて以降の話ですら、個人的にはザ・フーといえば、リアルタイムで発売されていたシングル曲に魅力があるというのが、グループ初期の真相だと思っています。
その意味で当時、小遣いの乏しさからチビチビとシングル盤しか買えなかったザ・フーのレコードも、今ではそれで正解だったのかもしれないと自己満足しています。そしてラジオ放送よりも遥かに勢いが強く感じられるレコードからのザ・フーの歌と演奏は、まさに「ロックの音」の象徴なのでした。
来日も近年にやっとね。
ピートのお祖父さんだかお父さんが戦争中に日本軍にひどいめに会い、日本人に偏見を持ってたのがその理由だとか。
コメント、ありがとうございます。
キース・ムーンとジョン・エントウィッスルが揃っていた全盛期の来日が無かったのは、心底、悔やまれますね。
それにしてもメンバー中で一番の常識人と思われるピートが、そういう偏見の持ち主だったとは……。
当時米軍の極東放送が、福岡では流れてたため、モータウン、ビートルズ等色々な音楽がラジオから流れてきていたのは知ってましたが、
中学高校になってやっと、当時の曲名が分かると言ったかんじでした。
タイガースが「色つきの女でいてくれよ」であらたなGSブームがあった時、元GSのある方が、音楽雑誌のインタビューで
「当時、イギリスのバンドが地下室のクラブで、ギター壊したりアンプ壊したり、それは凄かったんだから!」
と言うようなことをおっしゃってましたが、サイケおやじ様が言われたように
昭和40年代当時はベンチャーズとビートルズ以外はあまり報道されなかったようで、
GSの真っただ中におられた方でも、イギリスのバンドの名前をすべて把握されていたというわけではなかったようですね。
むしろ後から生まれた私のような若輩者の方が、おりからのネオモッズブームで色々イギリスの
バンドの輸入盤や情報に触れる機会が多かったのかもしれません。
リアルタイムの昭和40年代にバンド出来なかったのはアンラッキーだったかもしれませんが、
色々な昔のバンドを輸入盤などで比較的簡単に手に入れられるようになったのは、らっきーだったかもしれません。
今はインターネットの発達で昔だったら入手困難だったものでも結構手に入れられるようになりました。
ボブディランじゃないですが、時代は変わると言ったところですか。^^
コメント、ありがとうございます。
リアルタイムの昭和40年代、洋楽の情報はラジオと音楽月刊誌が、その中心でした。
しかし、そんな中に突如、テレビで放送開始となったのが、「ヤング720」という若者向けワイドショウで、平日の朝、7時20分からの人気番組でした。
まずいきなりGSの演奏があって、星占い、情報コーナーが続き、最後にまた、フャークや歌謡曲の歌と演奏があった毎日は天国でしたよ。
で、その中に洋楽の情報コーナーがあり、ザ・フーやジミヘンが、あのモンタレーの強烈ライブフィルムで紹介された時、私は死ぬほど、仰天してしまいましたよ。
そういうインパクトが、パンクやニューウェイヴを通過して再認識されたのは、意義深いですね。
そのあたりも今後、書いていきたいと思います。
小学生でしたが、なんとか覚えてますがいかんせん子供だったので、GSや歌謡曲の歌手が出てるとかしか、しっかり覚えてませんが(笑い。
洋楽のコーナーがあることはあったんですね。しかしながら当時の日本ではフーやその他のビートバンドを受け入れる土壌がまだなかったようですね。
それが約7,8年くらいたった私の高校生の時はモッズ、ロッカーズ(陣内孝則)ルースターズ、ブロークダウンエンジンなど等、
博多ではフォークと別の流れでブリティッシュビートの流れをくむバンドが突然変異のごとく数多く活躍しておりました。
当時主流だった、ツェペッリンなどのハードロック系のバンドは博多では何故かあまりうけませんでした。
恐らく地元の大御所鮎川誠がいたサンハウス(私より10歳位上の方々)など40年代よりアマチュアで活躍してたバンドの影響が大きいと思いますが、、、
あとジュークと言うブリティッシュロックのレコード専門店があったんですが、本当にビート系のレコードだけしかないとこでしたが、
この店も博多のロックにかなり大きな貢献をしてると思います。
当時高校生のアマチュアだった陣内孝則君が
「ピストルズとか、バズコックスのごたあパンクより、フーとかストーンズの方がよっぽど、イカしとろうが!」
と言うようなことを陣内君のバンドでベースを担当してた私の友人のとこで、熱く語っていたのが、思い出されます。
結局、フー等は当時の日本では理解されるのに時間がかかり、当時としては時期が少し早かったのかもしれませんね。
いつも、当時の詳しいお話を伺わせて頂いて本当に感謝しております。
60年代の音楽が大好きでも、当時、子供だったのでテレビやラジオの
表面的なものしか知らないので、
当時を良くご存じの諸先輩方のお話は当時を埋めるものとして大変興味深く聞かせて頂いております。
今後とも当時の秘話等よろしくお願い致します
コメント、感謝です。
こちらこそ、リアルタイムでの地元のお話を聞かせていただき、嬉しいかぎりですよ。
そうでした、ロッカーズやモッズ等々、東京へ進出したバンドは、業界では「めんたいロック」なんて呼ばれたブームになっていましたですね。
モッズはCM絡みのヒット曲も出していましたし、陣内孝則は個性的なキャラを評価され、俳優に転身して大成功! 本当に感慨深い時代でした。
ブロークダウンって???