■芽ばえ / 麻丘めぐみ (日本ビクター)
既にポップス歌謡というジャンルが定着していたとはいえ、麻丘めぐみの登場は、なかなかのインパクトがありました。
まあ、そんなふうに思ったのはサイケおやじだけかもしれませんが、とにかく彼女がデビューした昭和47(1972)年の我が国歌謡界における女性シンガーは小柳ルミ子、南沙織、そして天地真理の三人娘が人気を集め、また平山三紀や渚ゆう子、そして欧陽菲菲等々の実力派が続々と活躍しており、当然ながら、黛ジュン、いしだあゆみ、奥村チヨ等々の中堅組もまだまだトップを争っていましたから、そんな中に現れた麻丘めぐみは如何にも子供っぽく、セクシーというか、お色気とは未だ無縁のような存在と思えたわけです。
もちろん年齢的にも、当時としては「U-18」でしたから、役者ならばともかくも、歌謡曲という世界にあっては完全な子供であり、それゆえに「ロリ趣味」よりは「お姉様系」が好きなサイケおやじにはイマイチ……。
正直、馴染めない違和感を彼女には覚えていました。
ところが一般的には人気沸騰!
サイケおやじ周辺の野郎どもにしても日々、麻丘めぐみの信者が増えていったんですから、う~ん……。
もちろんサイケおやじには、ちゃ~んとその魅力が分かっていたんですよ、言い訳ではありますが。
それはサイケおやじの同世代の歌謡曲ファンにとって、初めて自分達と同じ年齢のアイドルスタア登場したという喜びで、極言すればカワイイ同級生が芸能界でデビューしたというような錯覚と現実が入り混じった甘酸っぱい気分になれたからじゃ~ないでしょうか?
麻丘めぐみにはリアルタイムで特段の魅力を感じなかったサイケおやじでありますから、もうこれ以上は書けませんが、それにしても掲載のシングル盤A面に収められた肝心のデビュー曲「芽ばえ」のクオリティは素晴らしく、流石は作詞:千家和也&作曲:筒美京平。そして編曲:高田弘の仕事は完璧!
特に筒美京平の書いたメロディが当時流行の歌謡フォークを意識しつつ、巧みに洋楽ヒットポップスの美味しいところをちりばめた手際はニクイばかりで、しかも高田弘のアレンジが流麗なストリングスの響きや彼女本人がダビングを繰り返したボーカル&コーラスの見事なコラボレーション共々、そのサウンドの質の高さは絶品と思うばかり♪♪~♪
ちなみに麻丘めぐみの歌唱力はサイケおやじにとっては判断の難しいところで、所々で声が苦しくなっていながら、それが不良少女予備軍の改悛の情を綴ったとしか思えない歌詞の内容と相まって、なかなかのせつなさを表現しているように思います。
もちろん、それが彼女の意図的なテクニックであれば、素直に脱帽!
そして麻丘めぐみの大成功からアイドル業界には低年齢の女性歌手が当然のように登場し、今に続く芸能界の基本的なコンセプトを形成していくのですから、なかなか深いですよね~。
考えてみればビクターというレコージ会社はGSブームの時にはオックスという、極北の歌謡バンドをデビューさせ、そのブームを終焉に導いたとさえ言われるほどの極端な企画が得意のようですから、ポップス歌謡というジャンルでも、麻丘めぐみという禁断のキメ技を出すという目論見は当たるのが必然という事かもしれません。
ということで、麻丘めぐみと云えば、サイケおやじにとっては長い黒髪を活かした独特のヘアスタイル、そしてモデル出身という事からの着こなしの上手さが一番に印象的な存在です。
佇まいとしてはスレンダーで、決して水着姿で野郎どもを虜するタイプではありませんでしたが、一方では、それが大好き♪♪~♪ という細身マニアも大勢いましたですねぇ~~♪
彼女を筆頭に岡田奈々、木之内みどり等々のスレンダーアイドルの系譜も、昭和芸能界における楽しみのひとつであります。
出生地 大分県別府市(大阪育ち)
1951年12月19日(昭和26年)生まれ 麻丘めぐみさんとは4歳違い
5歳の時から梅田にあるアカデミー児童劇団に通う
66年5月から遠藤実先生の元で歌謡曲歌手として修業を積み、67年レコード・デビュー。
藤井明美さんの歌手としてのスタートは、1967年ミノルフォン(現徳間ジャパン)から
花里あけみ(最初の芸名)
KA-111 思い出さん/花に降る雨 (67.3)
KA-141 渡り鳥芸者/湯の町なさけ (67)
KA-150 花かげろう/紅の海 (トシ伊藤とザ・プレイズメン) (68)
KA-186 たけくらべ/ (68.4)
このあと、しばらく歌手活動休止し、精華学園高校(大阪・星由利子さんもここを卒業)で学生生活をエンジョイしながら、ビクターのテレビなどのCMに出演していたようです。「運命」が収録されていたCD「ドラマチックお色気ブルース」の解説にある「女だけのロック・バンド」にもこの時期に参加していたのかもしれません。高校卒業後、本名の藤井明美名義で歌手活動を再開し、ビクターから以下のシングルをリリースしています。
藤井明美(本名で)
ビクター音楽産業
SV-2039 軽井沢の夜/涙は幸せなときも (70)
SV-2081 運命-さだめ-/あきらめのブルース (70)
SV-2131 女の意地/女ごころ (71)
SV-2170 新宿メルヘン/恋の面影 (71)
SV-2229 愛のメロディ/(カラオケ) (71)
「愛のメロディ」は異例のフォークっぽい作品で新境地を開拓、「ふじいあけみ」名義でビクター内フォークのレーベルから同路線の曲を一枚リリースしました。
SF-28 野菊にサヨナラ/ねんねのうた (72)
この後、立木久美子として再デビューするまで、一時期麻丘めぐみさんの付き人をして妹を守っていました。
立木久美子
SV-1185 思い出のカルチェ・ラタン/リラのさよなら (74)
SV-1206 愛の糸/樹氷 (74)
75年3月11日雑誌のカメラマンと結婚(23歳)。芸能界から引退。
現在は、着物の先生をしている。
2012年6月最新情報
藤井明美さんの娘さんが二代目立木久美子として歌手活動をしています。
現在の島田明美(藤井明美)さんの歌がYotubeで聞くことができます。
ぜひ検索してみてください。
麻丘めぐみさんは、お姉さんが演歌の歌手として上京してから、栄養失調で倒れたのをきっかけに、おかあさんと一緒に上京して、杉並区にある久我山のアパートで、少女モデルの仕事をしながら家計を助けていました。
お姉さんの縁でビクターのプロデューサーからレコードを出さないかと勧められて最初は断っていました。
お姉さんが売れないのだから自分が売れるはずがない。断りきれずに出した「芽ばえ」が大ヒット。
運命のいたずらで、歌手になる気のなかっためぐみさんのほうが売れてしまいました。その後、お姉さんは、めぐみさんの付き人をしてめぐみさんを守っていました。ファンと言っても、なかにはめぐみさんのからだに触ったり、髪の毛にガムを付けたりと、ひどいことをする人がいたからです。
このお姉さんがいたからこそ、今の麻丘めぐみさんがいるわけです。
私は、麻丘めぐみ姉妹の美しい姉妹愛に心打たれました。この姉妹愛があったからこそ、30年も過ぎた今も忘れることができずに、このHPを作ったわけです。もしこれが普通のアイドルと同じだったら、もしかしたら他のアイドルと一緒に忘れているかもしれません。ご覧になってわかるように、お姉さんは3度も挑戦しているわけです。お姉さんの努力も記録として残して置きたくてこのページを作りました。
2001年4月2日の麻丘めぐみJAZZライブで、1部のほうにゲストとして明美さんは娘さんと一緒に参加していました。現在は着付けの先生をしているそうです。娘さんは就職が決まったそうでスーツ姿で参加。
やはり、3度も挑戦するような人だから、ただでは終りません。着物の特技を活かして先生として成功していたわけです。
私は、ずうっとこの姉妹のことを気になっていたのですが、人生って面白いものだなと思います。姉の夢を妹が実現し、妹の夢、ごく普通の家庭を姉が実現してるのですから。
どんな人生でも、私は素晴らしいと思います。例え違う道に行かなければならなかったとしても、努力したことは必ずその人の心の栄養になっているからです。
’71“英 亜里”ショーで藤井明美さんは「新宿メルヘン」を唄いました。(“英 亜里”さんとは同事務所)
コメント&子細な情報、ありがとうございます。
お返事が遅れて、申し訳ございません。
最近、藤井明美への微熱を感じているんで、本気度も高くなっています。
近々、何か取り上げますね。
コメント、ありがとうございます。
往年のアイドルのバックバンドには、後に自らのバンド等々でブレイクする面々が多々在籍していましたですね。
矢野誠や近田春夫が、口入的な役割を担っていたという話も耳にしていますが、そんなこんなも、今や歴史ということで♪