■愛のコリーダ

映画監督の大島渚が天国へ召されました。
もう、長く闘病生活を送っていましたから、正直に言えば、それほどの悲痛の念はなく、故人の業績をあれこれ振り返る事も、辛い作業ではありません。
ただし、マスコミの報道では、常に強く紹介される「愛のコリーダ」は、決してそれだけではない大島渚監督が、やはりそれ抜きでは語れない存在として、屹立する作品と思うばかりです。
ご存じのとおり、昭和51(1976)年に公開された「愛のコリーダ」は、劇場用作品としては、我国初の本格的ハードコア、つまり「本番」映画だったわけですが、現在のAVでは、所謂「ハメ撮り」とか「真性本番」なぁ~んてものが普通に作られている事を鑑みても、何がどうして……、という騒動に対し、特にお若い皆様であれば、不思議な気持かと推察する次第です。
ちなみに「本番」という性交場面の実演は刑法175条に触れますから、世間一般の映画館で上映される作品での男女間の性交場面は「擬似」ということになっておりました。しかし、それをあえて乗り越えSEXを実際に行ってそれを撮影し、本篇に使ってしまうのが「本番映画」です。
もちろん日本のことですから、欧米作品のように結合場面や性器のモロアップ等は無く、そこにはボカシが存在していたにもかかわらず、それを「そうだ」と宣伝されれば、観客は何かを期待して観に行ってしまうという現実がありました。
そのあたりを踏まえて、「愛のコリーダ」は――
まず、物語は戦前の猟奇事件として有名な「阿部定事件」を扱ったものです。
昭和11年5月に起こった、この男根切除殺人事件は今日まで度々、いろいろなところで取り上げられており、映画でも日活ロマンポルノとして「実録阿部定(昭和50年・田中登監督)」という大傑作が作られております。
その所為かどうか、大島渚監督は最初から「ハードコアで撮る」という製作方針を貫いており、刑法や映倫審査から逃れるために、日本で撮影したフィルムをフランスで現像するという策をとっておりました。
そして完成した作品は最初、昭和51(1976)年5月のカンヌ映画祭に出品され、絶賛を浴びますが、ベルリンやニューヨークでは「猥褻かつ暴力的」ということで上映禁止、また、公開中のフィルムを警察に押収させた国も!?
ですから日本では同年10月に一般公開されましたが、当然、その前に映倫と税関から厳しい規制が入り、映像で約30分のカットや修正、音声・台詞も修正多数という要求が突きつけられ、物語展開でどうにもならない部分、例えば男女交合のシーンは真中をカットして上下を繋ぎ合わせるという荒業、分割スクリーン方式で逃れるという有様でした。
もちろん性器やアンダーヘアの映像はありません。
しかし、それでも日本では大ヒット!
世界的にも無修正版が公開された国はもちろんのこと、それ以外の国でもヒットして、高い評価を受ける結果になりました。

これにはハードコアという真実、あるいは猟奇事件を扱っているという事が要因としてあるかもしれませんが、それよりも大島渚監督の情念の演出、それに応えた定役の松田英子の妖艶な演技、そして脇役陣の充実と製作者側の熱意によるものが大きいと思います。
ちなみに松田英子は、ここで一躍有名になったわけですが、その前の芸暦としては寺山修司の劇団天井桟敷で活動し、映画出演は日活の「野良猫ロック・マシンアニマル(昭和45年・長谷部安春監督)」があり、彼女の役はほんのちょい役ですが、ここで既に「愛のコリーダ」で「本番」をやってしまう藤竜也と顔を合わせているのには、巡り合わせの妙を感じてしまいます。
で、この後モデル等をしながらの下積みを経て、昭和50(1975)年秋に大島渚監督との出会いとなるのです。
さて、肝心の本番部分ですが、サイケおやじは後年、無修正・ノーカット版を見る機会があり、そこでは確かにちゃんとやっておりましたし、性器のアップや松田英子のその部分に卵を押し込む場面、肝心の男根切除シーンもちゃ~んと在りました。
しかし、だからといって興奮度が高いかといえば、それは一時的なものという感想になります。
もちろん物語展開や映画的構成美を楽しむという観点からいえば、やはりノーカットのほうが望ましいのは言わずもがなです。
そしてメジャーな会社が作った、ちょっと自分には手を届かないような美女や良い女の見たいところまで見ることが出来、しかもその女が実際にSEXをやっての悶えに接するわけですから、これで興奮しない男、あるいは女はおかしいと言わざるを得ないのですが、それでも、あんまり裏の部分を出してしまうのは面白くないような気が致します。
つまり、素敵な女優さんが「よがって」いて、それを見て素直に興奮する人もいれば、あれは演技だと思う人もいるわけですよ……。
例え、本当にSEXをしていたとしても、同様だと思うばかりです。
そしてまた、彼女の演技は凄いと感動したり、本気で感じているのに演技っぽくなる、あるいは演技だとしても本気を超えた迫力があるという場合もありますから、サイケおやじには、ここらへんがエロ映画から足を洗えない部分になっているのですねぇ~。
結論として、実際にやっていようが、いまいが、要はそれを見せてくれる女優さんが如何に自分にとって魅力的であるかということで、それにはその女優さんの資質の他に監督の力量が欠かせないでしょう。
その意味で、「愛のコリーダ」はとても優れており、松田英子の輝きはもちろん、大島渚監督の演出は特筆すべきものがあります。
また、この作品に関連した書籍「愛のコリーダ/大島渚・著(三一書房)」が、映画本篇のスチールを掲載しているという事で警視庁に摘発され、猥褻図画販売容疑で大島監督と三一書房の社長及び取締役の計3名が書類送検されましたが、昭和54(1979)年に無罪判決が下されました。
ということで、本日は大島渚監督追悼として、僅かではありますが、一番の問題作として有名な「愛のコリーダ」を取り上げました。
しかし当然ながら、まだまだ故人には優れた作品が多々あり、特に「愛のコリーダ」云々で語れるような天才ではなく、むしろもっと別角度で評価されるべきところも必要かと思います。
晩年というか、病に倒れる前には、テレビで激怒する姿ばかりが印象に残っている事も否めませんが、確固した作品世界を持った映画監督としての大島渚こそが、本当の存在感!
そう言えばクインシー・ジョーンズが、あえて「愛のコリ~ダ~」と日本語で歌ったレコードを作ってしまった歴史も、殊更痛切に思い出されてきましたので、急にシングル盤を聴いたりもしました。

う~ん、良くも悪くも、凄い人でしたねぇ~。
合掌。
(注)本稿は拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した「闇の中の妖精・本番女優の巻」を引用改稿したものです。松田英子については、そちらにも多少は詳しく書いてありますので、よろしくお願い申し上げます。