「森 光子さんの半生」についての投稿をしたのはよいのですが、「本文」に打ち込むべきところを、誤って「概要文」のところに打ち込んでしまいました。皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びします。
さて、7日に初めて投稿したのですが、その内容をめぐってブログの中が大騒ぎになってしまった感を受けます。
戴いたご批判については、ひとひとつ応えなければならないのですが、浅学な上に豊富な資料を持ち合わせていないため、全てにわたって述べることが出来ません。そこで、その中の特に気になることについて述べたいと思います。
1 戦前の日本の朝鮮に対する行為は、感謝されこそすれ、非難されるような謂れ はないというような内容、および、証拠を示せということについて。
以下の2つの資料で十分でしょう。
① 日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与 えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持 ちを表明した。(以下 略)
2002年 「日朝平壌宣言」第2項の冒頭より
② 北朝鮮側は「過去の清算」について、「歴史的、道徳的に必ず解決されなけ ればならない問題だ」としたうえで、経済協力だけでなく、〈1〉在日朝鮮人 の地位向上〈2〉戦前、戦中に現在の北朝鮮の地域から日本に持ち込まれた文 化財の返還と補償―などを求めた。
このうち、在日朝鮮人の地位問題では、「政治・社会、文化の面で差別的処 遇を受けている」とし、文化財に関しては、「原状復旧が必要だが、痕跡がな くなった文化財は補償すべきだ」と訴えた。
これに対し、日本側は過去の植民地支配について改めて遺憾の意を表明し た。戦後、日本が韓国、フィリピンなどに実施した経済協力や賠償などの具体 例を引き、各国の経済発展に日本からの資金が大きく貢献したことも説明し た。
2006年2月 北京 国交正常化のための日朝政府間協議についての 「読売新聞社」のコメントの一部より
2 わたしの戦争体験は、「災」であって「場」ではないことについて。
事実であっても事実でないと言い張る。否定出来なくなると規模を矮小化しよ うとする。言葉の不十分さを取り上げて文章全体を否定しようとする。「自虐史 観」の論者がよく使う手法とそっくりな言い方ですね。
確かに狭義の意味では「戦災」でしょう。しかし、なぜ敢て「戦場」という表 現をしたのか。
あの当時の日本はいたる所が戦争を鼓舞するスローガンで覆い尽くされていま した。「鬼畜米英」・「一億火の玉」・「欲しがりません勝つまでは」・「贅沢 は敵だ」などなど。
当時、私は国民学校の1年生でしたが、学校の先生からいやというほど叩き込 まれました。“いいか、お前たち少国民も戦地の兵隊さんたちと同じ気持ちにな らなければいけない。よいな、ここは銃後ではない。戦地だ!”などと。
日本の国土は「戦場」であると認識させようとする、戦意向上のためのプロパ ガンダが溢れていたのです。
戦争体験のない方には実感出来ないでしょうね。
(閑話休題)
① 「贅沢は敵だ」というポスターが電柱に張られていました。そのポスターに 落書きがありました。「は」と「敵」の間に小さな文字で「素」と書かれてあ ったのです。これ、特高警察の資料に残っています。
② わたしの学校での体験です。ある日、受け持ちの先生の用で、上級生の先生
の教室へ伝言用紙を持っていくよう命じられました。教室の開き戸を開けて中 へ入ろうとしたとたん、大声で怒鳴られました。ノックしなかったからではあ りません。何度やっても怒鳴られます。立ち往生しているうちにやり方を教え られました。まずノックして戸を開ける。そこで「礼」をする。腰を曲げる角 度も決まっています。出来るまでやり直しです。次に申告する。“1年〇組 〇〇〇〇 用があってまいりました。”“ 声が小さい、もとへっ!”何度も やり直し。最後は絶叫してやっと合格。先生の前でまた一礼して、伝言用紙を 渡します。“ようし、帰れ!”。ここでまた一礼し、開き戸の前で申告しま す。“1年〇組 〇〇〇〇 用が終わったので帰ります。”“ようし!”。 戸を閉めて、やっと任務終了です。
これって、映画やテレビのドラマで似たような光景を見たことがありません か?軍隊そっくりですね。
こんなこと授業で習ってはいません。でも、こうやって軍人精神を叩き込ん でいくわけです。軍国主義教育の一場面です。
③ 祝日には登校します。講堂で式典が行われるのです。でも児童の多くは式に
意義を感じて登校するのではありません。式が終わると紅白の饅頭がいただけ るのです。甘いものに飢えている子どもたちにとって、こんな嬉しいことはあ りません。
式典のクライマックスは校長による「教育勅語」の読み上げです。ゆっくり と壇上に登ります。この日だけ舞台の背面は真っ白な幕で覆われています。静 かに幕が開きます。後ろから天皇の写真が現れます。でも、見てはいけませ ん。幕が開く直前、声がかかります。“黙祷!”。鼻水をすする音の中、校長 がゆっくりと重々しく「勅語」を読み上げます。後に知ったところによると、 一字読み間違えたために自殺した校長もいたそうです。
この私はうっかり顔を上げてしまったのです。どうしてかは記憶していませ ん。だから、舞台のようすがわかったのです。でも、後からこっぴどく叱られ ました。“目が潰れるぞ、罰があたるぞ。”とまで言われました。
天皇は神様なのです。見てはいけないのです。
3 飢餓と白旗降伏について。
驚きました。こんな新説(珍説?)初めて知りました。
まず、「飢餓」についてですが、栄養学者によれぱ、「飢餓」には2通りある そうです。1つは食物を全く口に出来ないために起こる「完全飢餓」、もう1つ は栄養の不足や失調などによって体力を消耗し、病気に対する抵抗力をなくし、 マラリア・アメーバー赤痢・デング熱などによって死亡するという「不完全飢 餓」。
わたしはこの意見に賛成します。さらに、この意見はどうでしょうか。
“五ヶ月以前、大本営直轄部隊として、ガダルカナル島に進められた第十七軍 の百武中将以下約三万の将兵中、敵兵火により斃れた者は約五千、餓死したも のは約一万五千、約一万のみが、救出されたのだ。”
これは、第十七軍のガダルカナル撤退を指揮したラバウルの第八方面軍司令官 「今村 均大将」が、戦後の回顧録で書いたものです。
『私記・一軍人六十年の哀歌』 美容書房
さらに、彼は、自決して責任をとると申し出た百武軍司令官を押しとどめた言 葉の中でも、次のように言ったと述べています。
“今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、飢餓の自滅だったのでありま す。この飢えはあなたが作ったものですか。そうではありますまい。日本人の横 綱に、百日以上も食を与えず、草の根だけを口にさせ、毎日たらふく食ってる米 人小角力に、土俵のそとに押しだされるようにしたのは、全くわが軍部中央部の 過誤によったものです”と。
ただ、「病死」だったと決め付けるのでなく、その原因が何であったかまで掘 り下げて考えたいものですね。
“日本軍が白旗を掲げたのに”。いったい大本営がそんなことを許したのでし ょうか。そうであるなら、必ず「命令書」があるはずです。ぜひ見せて欲しいも のです。敗戦の時に燃やしてしまったから残っていない、なんて言わないで下さ
いよ。
でも、念のため、古い本や雑誌を持ち出して調べてみました。
・丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 22 最悪の戦場 ガダルカナル戦記
・丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 2 地獄の戦場 ニューギニア・ビア ク戦記
・丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 9 ソロモンの死闘 ガダルカナルを めぐる海空戦記
・丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 10 悲劇の戦場 ピルマ戦記
・丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 1 空白の戦記 中・北部ソロモンの 攻防戦
以上 いずれも「潮書房」
・別冊歴史読本 戦記シリーズ 22 地獄の戦場 飢餓戦 ガルカナル/ニュ ーギニア/インパール
新人物往来社
・大東亜戦史 1 太平洋編 第4章 ガダルカナル
・大東亜戦史 2 ビルマ・マレー編 第7~9章 ジンギスカンの夢 コ ヒマ 死の盆地インパール
以上 富士書苑
まだまだありますが、きりがなのでこれぐらいにします。
どこからも出てきません。当時の日本軍を縛り付けていた規範は何だったでし ょう。「戦時訓」でしょう。“生きて虜囚の辱めを受けることなかれ”。これを 破ったらどういうことになるでしょう。軍法会議にかけられて「銃殺刑」です よ。だれが降伏命令を出したのですか。それとも、兵士ひとりひとりが「銃殺 刑」を覚悟で勝手にやったのだと言いたいのですか。そうではないでしょう。降 伏が許されないからこそ、突撃していったのです。こんなこと、いくらでも証言 があります。「玉砕」とはどういうことか、よく調べて下さい。
戦争の終わりごろ、アメリカ軍の「蛙飛び作戦」により、南方の島々は孤立し ました。食料の救援は全くありません。兵士たちは畑を作り、自給自足の生活を しました。そうしたところで、飢えから開放されるわけでもありません。よその 部隊の畑から芋などを盗むということもありました。見つかったものは直ちに 「軍法会議」にかけられ、「銃殺刑」の運命が待っていました。なお、この人た ちは「靖国神社」には祀られていないのです。
今でもアジアの各地には元日本兵だった人が残っています。報道関係者が調査 しインタビューしている番組を度々見ました。中にはこんな人もいました。重傷 を負って意識不明のまま、捕虜になってしまった。自分の意思ではない。でも、 帰れない。どうしてか。捕虜になったこと自体だ。帰れば家族・親戚が恥ずかし い思いをすることになるから。中にはまだ「軍法会議」が残っていて銃殺される かもしれないと思い込んでいる人もいたのです。
これが戦争の実態なのです。
4 空襲の中で、また、それ以後、私がアメリカを恨まず日本を恨むようになった ですって?
どこにそんなことが書かれているというのですか。よくそんな出鱈目が言える ものだ。腹が立つ前に笑ってしまいました。まあ、朝鮮の皇后「閔妃」は暗殺さ れて良かったと、平然と言えるあなたの品性ですから、平気で捻じ曲げることも 出来るのですね。
猛火の中、雨のように降りかかる焼夷弾、火のない方へ逃げると浴びせられる 機銃掃射、そんな恐怖の中でアメリカがどう、日本がどうなんて考えていられま すか。いや、もっと後のことだとおっしゃりたいのでしょうが、私にとってはど ちらもダメなのです。「森 光子」さんのお話のように“絶対に戦争をしてはい けない”のです。
だからこそ「9条」を大切にしたいのです。
5 大東亜戦争についてですって。
論じる気にもなりませんね。上記の『大東亜戦争』の本でもお読み下さい。