九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

止まらない、止まらない!   へそ曲がり

2006年07月21日 13時27分25秒 | Weblog
 17日の「保守系」さんのコメント『貴方の戦争体験は・・』の中でのいくつかのご指摘について、わたしの意見を述べさせていただきます。「コメント」で述べるべきかどうか迷いましたが、敢てこの場をお借りします。

1 わたしがあの中で申し上げた実験は、それ自体がわたしの「空襲体験」です(別の機会に投稿したいと思っていますが)。“日本軍なら機関銃で撃ち殺すことはないと思います”とのことですが、アジアの各地で無抵抗の人々を殺戮したという証言はいっぱい出ています。
 写真付きの証言も出ていますし、いくつかの本も所持しています。

2 確かに都会から離れたところでは、十分とは言えないものの、食料があったようですね。
 でもその中身はどうだったでしょうか。妻とわたしの体験はまるで違います。妻の方は“中身はひどかったがなんとか食べられた。”と言います。なんとうらやましいことか。
 茶碗に1杯の「くず湯」、それも甘味は全くなし、これだけで夕方まで過ごすという体験をされたことがありますか?
 空腹を満たすには、水をがぶがぶ飲むこと、それとも、近くの畑へ忍び込んで痩せた胡瓜を盗み、追いかけられて必死に逃げること、腹が減るのでなるべく動かないようにすること、こんな話をいまの子に話しても想像出来ないようですね。蛇なんぞ見つけたら、逃げるどころか懸命に追いかけました。
 道路の両側を自転車が通れるくらいだけの幅を残して畑にしたこと、そこにカボチャやサツマイモを植えたこと、肥やし(人糞)を運ぶ途中に紐が切れて頭から被ったこと、出来たカボチャなどを口にしても、当時でも「まずいっ」と思ったこと、などなど、いろいろありましたよ。今でもカボチャを口にすることに抵抗感があります。
 栄養失調になるとどんな体付きになると思われますか?写真などが残されていますが、腹がパンパンに膨れ上がるのですよ。まるで蛙です。わたしも蛙でした。
 山口判事の話はお聞きになっていますね。あれが現実です。

3 開戦について、海軍三羽烏のひとりで最後の海軍大将の「山本 成美」が戦後に、当時を回想して述べたそうですが(この本は持っていません。あれば、ぜひ読みたいです)、海軍最後の会議も賛否両論、喧々諤々の会議になったそうです。でも、最終的には、そこにいた将軍の一言だったそうです。海軍の神様とも呼ばれ、絶対的な権威を持っていたこの人には誰も口を挟むことも出来なかったそうです。その将軍の名前は「東郷 平八郎」です。彼の言葉がなかったら、回避出来たかも知れないとのことです。
 アメリカとの海軍力の違い、「山本 五十六」の反対はそんな程度のものではなく、アメリカと日本との「経済力」のあまりにも大きな違いから、無理だと判断した、だから、開戦にあたって彼が言った言葉、“半年間は暴れ回ることが出来る”(正確ではありませんが)、これは、《緒戦は相手の力を削ぐことが出来ても、あの経済力では、いずれは何倍もの力で圧倒される》、ということ、そのことを海軍次官の時に自分の目で見てきているからと言われているのです。《半年以後は保障出来ない》と言っていたのです。

4 報道陣や、それに煽られた国民にも責任があるとも思われるような表現ですが、戦争に反対するものを徹底的に弾圧し、それを国民にいやというほど見せ付ける、そんなことをしたら、いったい何が残りますか。
 これも「山本 成美」の回想と言われていますが、“あの時、共産党が自由に活動出来ていたら、この戦争を回避することが出来ただろう”と。

5 情報を隠し、統制する。ミッドウエイ開戦の時のアメリカと日本の情報の決定的な違いということについて紹介した本(雑誌)があります。「アサヒグラフ」か「毎日グラフ」かのどちらかだったと思いますが、本の入った部屋を探そうとしたものの、段ボールが天井まで積んだままの部屋なので見つけるのは無理でした。
 あの戦いでアメリカは空母ヨークタウンを沈められましたが、その全てを公開しています。国民からは厳しい批判も出ていますが、それらを受け入れながら、以後の作戦に取り入れたと言われています。
 一方、日本はどうだったか。「事実」を徹底的に隠した、それだけでなく「虚偽」の報道をさせた。ミッドウエイ島へ上陸させる予定の「一木支隊」をそのままガダルカナル島に送り込んだ。彼らの口から「事実」を話されることを恐れた、とも言われていますね。
 これ以後の{大本営発表」が「うそ発表」の連続であったこともよく知られていますね。東京の防御が不可能であることを軍部はとっくに知っていた。だったらどうして避難させなかったか。移動の際の混乱は当然あるでしょう。しかし、少なからぬ都民の命を救うことが出来たはずです。
 NHK特集の「東京大空襲」をご覧になったことがありますか?まだでしたら、DVDでも出ています(NHK出版)。
 空襲警報が発令されたのは、爆撃が始まってからであった、なぜか?DVDをご覧になれば、この謎についてしっかり教えてくれます。いかに国民の命を軽んじていたかが見事に証明されます。
 ストライキの場合、労働者が命を奪われることはないでしょう。一方は戦争です。殺し合いなのです。比較出来るものではないと思いますね。

 戦時中、イギリスには「コヴェントリー」という特別な意味を持つ単語がありました。「残虐行為」という意味です。「コヴェントリー」はもともと都市の名前です。どうしてそんな意味に使われたか。
 ナチスドイツによる無差別爆撃のために死者が5千人も出たことから、これを非難する意味で使われたのです。
 では、ひと晩に10万人もの死者が出た「東京」にはどんな意味を付けたらよいでしょうか?


 まだまだありますが、“言い出したら止まらないのがあなたの悪い癖!”とよく妻に言われます。今回はここまで・・・。


(追伸)

1 「保守系」さんから「転向」を奨められました。現代風「特高警察」というところでしょうか。
 近く投稿する予定の『父の遺言』をお読み戴くことを願っています。

2 それにしても、「改憲論」のみなさんには耳障りなニュースが多すぎますね。夕べから今朝にかけての「昭和天皇発言」などもその1つ。

3 安倍晋三氏が著書を出版したとのこと。どうせ総裁選へ向けてのゴーストライターの作品でしょうが、内容紹介の記事を読んで、笑い出してしまいました。

 
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昭和天皇の心は?  落石

2006年07月21日 09時04分20秒 | Weblog
昭和天皇が亡くなる前に、靖国神社へのA級戦犯合祀を
嫌っていたとの報道。とても興味深く読みました。
事の当否は別にして、私は、情報の出所と、報道された時期に注目します。

情報の出所が、元宮内庁長官。
(彼は亡くなっていますが、メモは保管されていました)
北朝鮮報道によって九条を改定しようという空気に
拍車がかかった「今」という時点。

ちょっと前のことでしたが、沖縄返還交渉の際の
外務省の責任者だった人物が、密約があったことを公に認めました。
密約をすっぱぬいた西山記者が、国会で追及された時、
密約はなかったと断言した人物です。

彼は安保条約が新しい日米条約に質的な変換を
遂げようとしている現時点で真実を明らかにしました。

いずれにせよ、日本は新しい段階に飛躍しようとしている。
それを老人たちと、その周辺の人々が、
非常に心配していることを示しています。

      

昭和天皇の心もこういう文脈のなかに置いて読んでいます。
彼ほどは、戦争はコリゴリと思い知った日本国民も
少ないでしょうから。
  (彼は日本国民でしたっけ?)

    

まあ、年寄りの忠告には万に一つの無駄はない。
という格言を思い出して欲しいものです。

   老いの繰言であって欲しいと思う落石


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ルワンダ悲劇、原因の要約   文科系

2006年07月21日 00時18分14秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
しかしながらさて、この「人口圧力」がどれほど激烈なものであったかが、実は著者にとってもルワンダの最大問題。因みにこの10章に著者が付けた題名は「アフリカの人口危機」である。ルワンダの人口危機を要約してみよう。
東アフリカ、中でもルワンダの歴史的人口増問題は前回に見た。ここでは、事件直前の状況をまとめてみる。1990年には先進国中人口密度世界1と言われるオランダに迫る勢いであったが、これを支えるためのルワンダの農地開墾は凄まじいものがあった。85年には国立公園以外は全て開墾し終わった。森林伐採、沼の水抜き農地化、休耕なしの年2~3回収穫などに加えて、丘の急斜面の農地化では、段差付けなどの土壌浸食対策もろくにやられない急造農地化が進められた。80年代後半には、土壌浸食による小川の干上がりも激しかった。結果として、農業生産高は81年以降急減するに至った。そして89年には、大旱魃、飢餓の深刻化があった。
なお著者は、これらのことの諸結果を北西部カナマという1つの地域の実態調査結果で示していく。植民地ルワンダの旧宗主国ベルギー人の師弟2人が88年と93年に16ヶ月この地域に滞在してまとめた資料である。因みに93年とは、94年の国民11%大量虐殺の前年で、この年が88年からどれだけ問題が深刻化していたかを示す比較資料として、偶然のことなのだが極めて貴重なものとなった。またこの2人は当然、94年の虐殺後もここを訪れ、後に見るような後遺惨状をも報告している。

この5年の間にカナマの人口密度は17%増え、1世帯当たり農地は逆に分割などで20%減って、2900平米。正方形換算で54メートル四方という狭さである。なのに1世帯当たり家族数はと言えば、若者が結婚できないことから、4.9から5.3人へと増えている。結果、親と同居の20~25歳、つまり「スネカジリ」が女性67%、男性100%になったという数字まで残されている。農地が分割され尽くしたその結果の惨状がよく分かる。農外収入は大工、煉瓦作り、小売業などと極めて限られ、3分の1の世帯はそれも全く持ちえなかった。こうして、1日当たりのカロリー摂取で「飢餓レベル」の1600カロリー未満が82年9%から90年40%へ、こんな数字さえ残っている。
健康問題、葬式などでこの小さい土地をすら手放す人々が出る。「飢えた泥棒」になるしかなかった。老後まで長く土地を持とうとする父とその子との争い。子ども同士の相続争い、夫婦の疑心暗鬼などなど、調停に持ち込まれた問題が続出していた。2人の研究者はこの地域で調停に持ち込まれた226件の衝突の面談調査報告まで行っている。こうしてつまり、1人だけのツチ族寡婦以外は全てフツ族だというこの地域でも、一触即発状況だったのである。
この研究者2人による虐殺後の地域調査からは以下の状況が判明している。「戦争犠牲者」は少なめに見て5.4%、全国平均11%からはかなり少ないが、その犠牲者の特徴は次のように6分類されたという。50歳前後の土地持ち世帯主、多い農外所得で土地を得た比較的若い人、いくつかの衝突を起こしていた「厄介者」、市民軍入りした貧しい若者、寡婦、餓死者である。

最後に読み終わっての僕の慨嘆。
同類の虐殺が隣国ブルンジでも遠くない規模で起こった。バングラデシュ(東パキスタン)は世界有数の人口密度であるとも、あそこの71年の大量虐殺規模はブルンジ以上だとも、著者は書いている。バングラでは、こういう食料問題はなかったのだろうか。そして何と言っても70年代のあのカンボジアはどうだったのだろう? 因みに、虐殺までは行かずとも、その一歩手前という危機にあるような「人口・飢餓問題」なら世界には無数なのだろうな? 大国による経済搾取、ルワンダの苦境にも影響した世界銀行の緊縮政策などは、世界的なものだったはずだし。などなどと、思いが及んでいく。そしてやり切れぬ感じで考え込んでしまった。日中、日韓の面子の張り合いなんかやっている場合かよ。中国だって、農村が危ないと聞いているしな。ともあれ、僕は現代世界史にこれだけ無知なのに、コスモポリタンなどと自称していたのだと、自己嫌悪に落ち込んでしまった。そんな告白に等しいことを、遅ればせながら行っておかなければならない。
「新聞にもこういう記事は載っていたはずなのに、読み飛ばしていたんだなー。人間が己を自覚するっていかに難しいことなのか!」
コメント (14)
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