中学三年生になつて、熱田区の工場へ勤労動員され、空襲に会って帰宅する途中死傷した人達の血で埋立地の水溜りが真っ赤になっていたことは前回お話しました。
今回は私の家族が運の悪い事に二度も空襲に会った事をお話しします。
名古屋の空襲が激しくなり、大曽根の三菱エンジン工場などが爆撃され、その後三日間北区西区などが空襲を受けました。
その空襲で、爆撃が終わったB29が帰路、残りの爆弾を捨てていったのが運悪く私の家に命中し家は全壊してしまいました。しかし 私の特技で掘った防空壕のお蔭で、家族は幸い無事でした。 防空壕の出入り口の蓋は土で埋まり空気抜きの土管は地上スレスレできれいに切断されていました。
その後数日間、父母は放心状態で何も手につかない様子でした。
その後どこの人かも知れない人も加わり、爆弾の作った穴に吸い込まれた家財を(爆発の時の気圧の変化で何もかも吸い込んでしまう)掘り出しました。私も掘り出すのを手伝ったのですが、思い出の物が次々と土の中から現れるので、丁寧に土を払ったりして仕事が進みませんでした。出て来た物には、コードの繋がったラジオ(国民一号)・脚の折れたお釈迦様の誕生佛・赤土まみれの分厚い辞書。 そして掘り出した良い物はかなり手伝った人が持って行きました。
また、その年の正月に遊んだカルタ類、天高く飛び散った百人一首が東側の林の中から沢山見つかりました。
家が全壊したので、私は母の里であった東区の主税町に身をよせていました。私はそこから工場に通っていました。しかし、工場はエンジンが作れなくなっていたので、製品が出荷出来ず、掃除ばかりしていたので、罹災した私はしばらく工場を休むことが出来ました。
そんな訳で、爆撃でやられた現場へ何日も通って残った家財を掘り出しました。しかしそれも馬車に乗せ中区にある家に運んだのですが、その夜の空襲でまた車ごと焼けてしまいました。
今回は私の家族が運の悪い事に二度も空襲に会った事をお話しします。
名古屋の空襲が激しくなり、大曽根の三菱エンジン工場などが爆撃され、その後三日間北区西区などが空襲を受けました。
その空襲で、爆撃が終わったB29が帰路、残りの爆弾を捨てていったのが運悪く私の家に命中し家は全壊してしまいました。しかし 私の特技で掘った防空壕のお蔭で、家族は幸い無事でした。 防空壕の出入り口の蓋は土で埋まり空気抜きの土管は地上スレスレできれいに切断されていました。
その後数日間、父母は放心状態で何も手につかない様子でした。
その後どこの人かも知れない人も加わり、爆弾の作った穴に吸い込まれた家財を(爆発の時の気圧の変化で何もかも吸い込んでしまう)掘り出しました。私も掘り出すのを手伝ったのですが、思い出の物が次々と土の中から現れるので、丁寧に土を払ったりして仕事が進みませんでした。出て来た物には、コードの繋がったラジオ(国民一号)・脚の折れたお釈迦様の誕生佛・赤土まみれの分厚い辞書。 そして掘り出した良い物はかなり手伝った人が持って行きました。
また、その年の正月に遊んだカルタ類、天高く飛び散った百人一首が東側の林の中から沢山見つかりました。
家が全壊したので、私は母の里であった東区の主税町に身をよせていました。私はそこから工場に通っていました。しかし、工場はエンジンが作れなくなっていたので、製品が出荷出来ず、掃除ばかりしていたので、罹災した私はしばらく工場を休むことが出来ました。
そんな訳で、爆撃でやられた現場へ何日も通って残った家財を掘り出しました。しかしそれも馬車に乗せ中区にある家に運んだのですが、その夜の空襲でまた車ごと焼けてしまいました。