765年、洛陽、長安の地を目指して杜甫は家族を連れて成都を旅立ったが、都周辺の情勢は安定していない。杜甫の体の事情もそれを許さない。杜甫は糖尿病を患い、さらに喘息と関節炎が彼を苦しめる。長江を下る途中、やむをえず奉節の地にしばらく留まらざるをえなかった。山中に草庵を設け、約2年間の時を過ごすことになる。川幅が一気に狭まり急流となって流れ落ちる三峡のはじまりが、瞿塘峡である。瞿塘峡を過ぎ巫峡に入る直前に奉節はある。三国志で有名な白帝城のすぐ手前にある。その地での最高の名詩を次にしめす。
登 高
風急天高猿嘯哀 風急に天高くして 猿嘯哀し
(えんしょう)(かな)
渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙白くして 鳥飛廻る
(なぎさ)(すな)(ちょうひ)(めぐる)
無邊落木粛粛下 無辺の落木は粛粛として下ち
(むへん) (しゅくしゅく) (お)
不盡長江滾滾来 不尽の長江は滾滾として来る
(ふじん) (こんこん) (きた)
萬里悲秋常作客 万里 悲秋 常に客と作り
(かく) (な)
百年多病獨登臺 百年 多病 独り台に登る
(ひと)
艱難苦恨繁霜鬢 艱難 苦だ恨む 繁霜の鬢
(かんなん)(はなは)(うら)(はんそう)(びん)
潦倒新亭濁酒杯 潦倒 新たに亭む 濁酒の杯
(りょうとう)(あら)(とど)
病多く、生活にも苦労している杜甫の哀しみが切々と伝わってくる。高台に登って眺める風景が最初の四行まずに示され、続けて杜甫自身の心情を詩いこむという構成がすばらしい。その風景を瞿塘峡の出口で我々も眺めることが出来る。
三峡下りの船旅の際、白帝城に立ち寄ることになるだろうが、その際、そのすぐ西に杜甫が草庵に住んでいたことを思い出して欲しい。
登岳陽楼
昔聞洞庭水 昔は聞く 洞庭の水
(どうてい)
今上岳陽楼 今は上る 岳陽楼
(のぼ)
呉楚東南坼 呉楚は 東南に坼け
(さ)
乾坤日夜浮 乾坤は日夜に浮かぶ(乾坤=天地)
(けんこん)
親朋無一字 親朋 一字無く(一字=一字の消息)
(しんぽう)
老病有孤舟 老病 孤舟有り
(こしゅう)
戎馬關山北 戎馬 関山の北 (戎馬=戦争)(関山=関所の置かれた山々)
(じゅうば)(かんざん)
憑軒涕泗流 軒に憑れば 涕泗流る
(のき)(よ) (ていし)
768年、奉節を去り三峡を下る。杜甫の舟は洞庭湖のあたりを一年数ヶ月もさまよい続ける。そのときには、杜甫一人の放浪の旅である。
その途次、岳陽楼に寄りこの詩を読む。年老いて、しかも関節炎・糖尿病で身体は自由に動けない。友からの便りは届かない。一人舟に乗って旅をする杜甫の深い哀しみが、この詩を読む人の心を打つ。「憑軒涕泗流」、岳陽楼の上で本当に杜甫はとめどなく涙を流したのであろう。
770年、岳陽と長沙の間を流れる湘江をただよう舟の上で五十九才の一生を終えることとなった。
三峡下りの途中、洞庭湖を訪れた私は、岳陽楼に登り洞庭湖を見渡した。水蒸気に霞む水面(みなも)に漂う小船を見たとき、「杜甫はこのように漂っていたのであろう」と思うとともに、杜甫の成都を離れて以降のさすらいの旅と、その終焉に思いを馳せた。杜甫の深い悲しみと望郷の思いに、胸を締め付けられるような感慨を覚えたのを思い出す。
さらに、赤壁の戦いを前にして、呉の水軍が軍師周瑜の指揮のもとここ洞庭湖で訓練を重ねた歴史事実にも想いを馳せられた。
登 高
風急天高猿嘯哀 風急に天高くして 猿嘯哀し
(えんしょう)(かな)
渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙白くして 鳥飛廻る
(なぎさ)(すな)(ちょうひ)(めぐる)
無邊落木粛粛下 無辺の落木は粛粛として下ち
(むへん) (しゅくしゅく) (お)
不盡長江滾滾来 不尽の長江は滾滾として来る
(ふじん) (こんこん) (きた)
萬里悲秋常作客 万里 悲秋 常に客と作り
(かく) (な)
百年多病獨登臺 百年 多病 独り台に登る
(ひと)
艱難苦恨繁霜鬢 艱難 苦だ恨む 繁霜の鬢
(かんなん)(はなは)(うら)(はんそう)(びん)
潦倒新亭濁酒杯 潦倒 新たに亭む 濁酒の杯
(りょうとう)(あら)(とど)
病多く、生活にも苦労している杜甫の哀しみが切々と伝わってくる。高台に登って眺める風景が最初の四行まずに示され、続けて杜甫自身の心情を詩いこむという構成がすばらしい。その風景を瞿塘峡の出口で我々も眺めることが出来る。
三峡下りの船旅の際、白帝城に立ち寄ることになるだろうが、その際、そのすぐ西に杜甫が草庵に住んでいたことを思い出して欲しい。
登岳陽楼
昔聞洞庭水 昔は聞く 洞庭の水
(どうてい)
今上岳陽楼 今は上る 岳陽楼
(のぼ)
呉楚東南坼 呉楚は 東南に坼け
(さ)
乾坤日夜浮 乾坤は日夜に浮かぶ(乾坤=天地)
(けんこん)
親朋無一字 親朋 一字無く(一字=一字の消息)
(しんぽう)
老病有孤舟 老病 孤舟有り
(こしゅう)
戎馬關山北 戎馬 関山の北 (戎馬=戦争)(関山=関所の置かれた山々)
(じゅうば)(かんざん)
憑軒涕泗流 軒に憑れば 涕泗流る
(のき)(よ) (ていし)
768年、奉節を去り三峡を下る。杜甫の舟は洞庭湖のあたりを一年数ヶ月もさまよい続ける。そのときには、杜甫一人の放浪の旅である。
その途次、岳陽楼に寄りこの詩を読む。年老いて、しかも関節炎・糖尿病で身体は自由に動けない。友からの便りは届かない。一人舟に乗って旅をする杜甫の深い哀しみが、この詩を読む人の心を打つ。「憑軒涕泗流」、岳陽楼の上で本当に杜甫はとめどなく涙を流したのであろう。
770年、岳陽と長沙の間を流れる湘江をただよう舟の上で五十九才の一生を終えることとなった。
三峡下りの途中、洞庭湖を訪れた私は、岳陽楼に登り洞庭湖を見渡した。水蒸気に霞む水面(みなも)に漂う小船を見たとき、「杜甫はこのように漂っていたのであろう」と思うとともに、杜甫の成都を離れて以降のさすらいの旅と、その終焉に思いを馳せた。杜甫の深い悲しみと望郷の思いに、胸を締め付けられるような感慨を覚えたのを思い出す。
さらに、赤壁の戦いを前にして、呉の水軍が軍師周瑜の指揮のもとここ洞庭湖で訓練を重ねた歴史事実にも想いを馳せられた。